講座7 「いしかり 人物語~歴史を彩った人々」
2010/09/21
9月21日、講座7「いしかり人物語~歴史を彩った人々」の第3回 浅見仙作~厚田の地にシオンの丘を夢見て が花川北コミュニティーセンターで行われました。講師は第1回・第2回に続き、田中實さんです。
浅見仙作は、あまり馴染みのない人物ですが、厚田区春別の地で(浅見自身はシオンの丘と呼んでいた)開墾に励みながら伝道に努めた、無教会キリスト教伝道者です。
お話は、浅見仙作の略歴について年代順に紹介することで始まりました。
明治元年、新潟県北蒲原郡安田村に誕生(石狩本町は蒲原出身者が多かった)12歳:塾の代用教員を勤めた。15歳:家業を手伝う。
17歳:夜間学校を開いた。23歳:小島キセ子と結婚(のちに離婚)24歳:生家が傾き、北海道に渡る。26歳:札幌郡篠路村茨戸太に5町歩の土地を得る。
29歳:石塚ヤスと結婚 30歳:50町歩の土地を所有。篠路村総代、学務委員、北海道農会篠路支部長、茨戸太郵便局長などを勤めた。
31歳:4月と9月の大洪水により壊滅的な打撃を受ける。35歳:札幌メソジスト教会の伝道集会で三谷種吉の説教に感動、洗礼を受ける。 36歳:キリスト教団視察のため渡米。
37歳:カリフォルニアの日本人メソジスト教会で代理牧師を勤めるが、教会員・牧師・宣教師の日ロ戦争への態度(戦勝祈願)に疑問を持つ。内村鑑三「聖書の研究」の非戦論に共感し、非戦平和を強調して代理牧師を辞任。
40歳:帰国。2週間ほど内村宅に滞在。北海道に戻る。41歳:厚田郡聚富・望来にまたがる段丘地(春別)303haを譲り受け、開墾に努める。この地を"シオンの丘 "と名付けて伝道に励む。50歳:浅見が発起人となり、日本麻絲(株)石狩製線所を設立(八幡町字聚富中島)工場管理人を勤める。
51歳: 内村鑑三石狩町来訪、製麻会社の社宅に一泊。58歳:石狩製線工場操業停止後、退社。夜道で右脛を折り、春別を去り、札幌で浴場を経営。
64歳:個人伝道機関紙「喜(よろこび)の音(おとずれ)」を創刊。70歳:「喜の音」が日支事件に関する不穏記事として発禁処分「喜の音」廃刊「純福音」を発行。74歳:「純福音」廃刊。75歳:私製ハガキ通信「雪の下より」発行。
76歳:密告により留置される「雪の下より」廃刊。77歳:治安維持法違反で起訴される「懲役3年の実刑」判決を受け、大審院に上告。78歳:大審院法廷で無罪判決を受ける。85歳:琴似町で逝去。
お話を聞くと、浅見仙作という人は、どんな状況でも自分の信念を貫き通した人物のようです。
田中さんは、このように浅見仙作という人物像を描き出す合間に、明治31年の洪水での石狩の被害や、内村鑑三が何度か石狩を訪れたことなど、石狩に関わる話を挟まれるので、受講者はついつい引き込まれてしまいます。
こうして、90分のお話で、あまり馴染みの無かった浅見仙作という人物の人となりが良く理解出来たのでした。
さらに、今回は3回シリーズの最終回なので、田中さんは1~2回の追加として、町村敬貴に関連して、町村牧場が江別へ移転する時、南線小学校に牛舎が寄贈されて石狩で初の体育館として利用されたこと、町村金五知事は石狩に来た時、よく南線小学校まで散歩していたこと、砂地造田に関して、石狩は気候が温暖で他地区が冷害の時でも被害がなく種もみの一大生産地であったこと、などを話され、受講者に全てを伝えようとする熱意には感心させられました。
このように素晴らしい田中さんのお話に対して、受講生からも
「田中先生のお話は、本筋となる方のエピソードの中に、枝葉として登場してくる方達の経歴までも把握なさっているのに、いつもおどろかされます。今日は特に、手書きの年譜に感激致しました。懐かしさと共に、年譜に添ったお話は、浅見仙作氏の一生涯の伝記として記憶にしっかり刻まれました。昨年に続き今年の人物語も、大変楽しく興味深く拝聴させて頂きました。これはシリーズとして次回にも続けて頂きたく思います」
「田中先生のお話にはいつも感動させられます。浅見仙作に関する資料、文献のみならず広い角度から記録を読み込む研究の進め方に頭がさがります。今後も田中先生の好きな人物について語っていただきたいと思います」
「今迄知らずに過ごしてきたのに、こんな苦労されてきた人がいて今の住みごこちのいい街が出来てきたことに誇りを感じます」
「石狩にもキリスト教の団体が居たのを知ってうれしく思いました。私も、今通っている教会から独立して無教会的な集会を自宅で始めたいと思っております」
「いつもの事ながら、あふれるような知識を時にユーモアを交えてのお話はつきる事がなく、ひきつけられました。時間が足りなかったです」
等などの声が寄せられました。
最後に、ぜひ来年もこのシリーズを続けて欲しい、との要望が出されて今日の講座は終了したのでした。