講座10《プロフェッサーコース》『藤村久和さんと学ぶ北海道とアイヌ文化』
2010/10/27
10月26日(火)講座10「藤村久和さんと学ぶ北海道とアイヌ文化」の第2回「アイヌ文化とアイヌ語地名・石狩とアイヌ民族の関わり」が花川北コミュニティセンターで行われました。講師は、藤村久和さん,参加者は39名でした。
藤村さんは先ず、前回のアンケートで寄せられた、かっての道内アイヌの地区別人口はわかりますか?という質問に、昔の人口調査のやり方など詳細に答える事から始められました。アイヌについても江戸時代文政5年と安政年間に調査されたことがあるそうですが、その数字は静内地区など特別な地を除いて残っていないのだそうです。
さて、本論のアイヌ文化についてですが、アイヌの存在についての認識は、考古学では鎌倉時代以降、歴史学では明治以降、言語学では江戸末期からと、それぞれの立場、考え方により、まったく異なっているのだそうです。
しかし、このように存在の空白期間があるのは、あながちアイヌばかりではなく和人についても、日本で一番古い庚午年籍(飛鳥時代)の後は江戸時代元禄期までは戸籍の空白時代となっていて、例えばどんな古い家系でも天保期くらいしか遡れないのだそうです。例外として古く遡れるのは、外来(百済など)の家系で、もともと居た人についてはなかなか記録が残らないのだそうです。
次に、藤村さんは、文化とは何か、という話の皮切りに、日本文化はどんな所にありますか?と質問されました。
言葉、皮膚、食文化、宗教などという答えに対して、藤村さんは、脳の中にあるのです、と言われました。日本人も近代化して大きく変わったように思えるが、外見が変わっても体内には、けばけばしいものは好まない、というような性情(物差し)が残っている。これは、環境により、脳にすりこまれているものであり、これが文化なのだ、その証拠に、同じ日本人でも外国で育った2世は物差しが違っていると話されました。
その環境ということでは、日本ほど水の豊かな所はなく、その水の豊かさがアイヌ文化を育んできた、のだそうです。
暮らし方も、ひとつの河川流域にひとつの男性系血族集団が生活するやり方だったようです。
豊かな水が育てた森林から生活資材を得ていたアイヌは、森林を破壊すれば自分たちの生命維持が不可能になることをよく知っていて、森林を切って開拓する和人とは違い、森林との共生を図り、森林を切らなかったのだそうです。
アイヌは、森林のことを、タイ(林)ニタイ(樹林)と呼びますが、トイタという呼び方もあり、これは、耕作地という意味であり、アイヌにとって森林は畑であったのだそうです。
その畑を維持するため、種をばらまいて、森づくりをしたり、実生苗を植え替えるなど植林も行っていたとのこと(森づくりばかりでなく、鮭の稚魚の放流も行っていたのだそうです)
また、アイヌが森林を大事にしたのは、単に生活資材を得るためばかりではなく、輪廻という宗教観により、もう一度蘇ってきた時に、元の環境が変わっていたら困るという考えに基づいたものでもあるそうです。
このように、アイヌの文化について説明された後、最後にアイヌ文化と日本人との関わりについて話をされました。
4500年前の遺跡の文様にアイヌ文様と似た物があったり、言葉についてもアイヌは、生活に関する言葉は北方民族などから取り入れているが、信仰に関わる言葉は日本語を利用していることから、文化の物差しが同じ、すなわちルーツが同じなのではないか、と示唆して結びとされました。
今回は、講座のタイトルにあるアイヌ語地名のお話が出なかったので、アンケートで指摘された方もいましたが、アイヌ文化とは何か、さらにそもそも文化とは何か、ということが良く理解できた大変面白い講演でした。
受講者からも
「全ての民族に共通するであろう生きる知恵。北海道の先住民族であるアイヌの人々の生きる英知を学べたことが良かったです。人がいとおしく思います」
「『文化』について今一度深く考えさせられる講座でした。森林や自然と共生していたアイヌの人達を想うとき、それぞれの文化を理解することが、平和に暮らし、不幸な人達があらわれないためにも一番大切なことであったと、申し訳ない気持ちになりました」
「今日の講座にも、人の生き方についての示唆するものが多くあった」
「アイヌの人たちがいかに生活の為に、自然、森林を大切にしていたか良く判り、それが今の我々の生活に潤いを与えてくれているかを実感いたしました」
「私たちは、アイヌの人々の知恵に今も学ばなければならない・・・」
等などの言葉が寄せられ、森林と共生するアイヌの生き方に共感を覚え、文化についても想いをこらした方が多かったようです。