講座10《プロフェッサーコース》『藤村久和さんと学ぶ北海道とアイヌ文化』
2010/10/21
10月19日(火)講座10《プロフェッサーコース》『藤村久和さんと学ぶ北海道とアイヌ文化』の第1回「アイヌ民族と縄文人」が北コミニュティセンターで行われ、36名が参加しました。
講師の藤村久和さんはアイヌ語での会話も出来るアイヌ研究の第一人者です。大学卒業後厚田村聚富小学校、石狩町立南線小学校に勤務されてから北海道開拓記念館研究員を経て北海学園大学教授になられた方で、聚富に自宅をお持ちとのことで石狩市と縁のある方です。
今回の第1回目の講座では人類学の流れについて学習しました。
東京大学へ雇われ外国人教師として来日したエドワード・モースが大森貝塚を発見したり、層位学の地層累重の法則など基本的学問体系を教えたりしたことなどを皮切りに、日本の人類学について坪井正五郎、長谷川言人、鈴木尚、埴原和郎等の研究史の概要についての説明がありました。
ヨーロッパでは経済がひっ迫していたために植民地を持ったそうでが、王族が植民地にあるいろいろなものを見せたくなり、動物園、植物園、美術館、博物館などを作り見せるようになったそうです。そうするとヨーロッパ、アフリカ、アジアに違いのある事を発見し、やがてそれらを比較し分類することが始まり、学問・科学となり、それがダーウインの進化論へと発展したという事です。
人の研究も始まりますが、キリスト教の教義に反しないよう、最初はあくまで仮説としてあつかわれたようです。猿→人の間に人猿、猿人、旧人、新人等を位置づけしました。はじめこれらは我々の祖先と位置づけられていたそうですが、現在ではこれらはすべて絶滅種で、我々の祖先につながっていないとされているそうです。
ヨーロッパ人は人を身長、皮膚の色、目の色、髪の毛、外形的特徴等の外見で分類してグループを作ったそうです。その結果、人的な人か猿的な人なのかという見方となり、アフリカ人やアボリジニーなどは人の形をした猿とみなされたそうです。奴隷にしたり殺したりしたのも、人と見なしていなかったためだったという事でした。
ヨーロッパの多くの人たちは日本人を見たことがなかったけれども、オランダを通して日本の物品がヨーロッパに伝わり、「根付け」等の高い芸術性や細工の見事さのために、それを作った日本人を人と見なしていたそうです。
日本の記録ではせいぜい千数百年程度の歴史しかわからないのだけれども、土木工事等により堀り出されてきた土器を、地層累重の法則等により時代を同定し、時代ごとの文化を区分し、縄文式は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に、弥生式はⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵに分類されているそうです。
また、戦後、道路工事等で多くの人の頭骨が集まり、頭骨の13か所を数値化して分類し、そこから日本に居住していた人の特徴の変遷が読み取られたそうです。埴原和郎の研究では、日本に住んでいた(いる)人達をある数値を基にした座標軸に置いてみると、縄文人、弥生人、アイヌ、沖縄人、関東・大阪人、京都・奈良人の順で一つの曲線上に並んでいるそうで、これによると、アイヌと縄文人は近いつながりを持つということのようですが、日本人についての研究はまだまだ途上であるとして、藤村さんははっきりした結論は出されませんでした。
参加者からは
「文化人類学とはこのような学問だったのかと、ものすごい興味を持つことが出来ました」
「ヨーロッパ人の考え方を含めて人類学の流れがわかり、大変面白かった」
「アイヌ以前のお話も大切でしょうが、出来ればもっとアイヌの事を聞きたかった」
「猿はヨーロッパにはいない。珍しい物を植民地から集めたら見せたくなって動物園や美術館にしたなど、ヘェー!そーだったのかと思う事が山のように講義されていて、本当におもしろかった」
「人の研究をこれまで詳しくわかりやすく説明して下さった先生に感謝します」
「いつもながら先生の博識と明解な説明に感心した。非常に面白いお話だった」
「興味深く拝聴しました。少し難しかったです」
「講義内容に集中するためにはレジュメに内容を載せないほうが良いと思うが、聞き間違いもあるので概要は欲しかった」
「講座資料について何もないが、内容項目だけでも記して欲しかった」
等の声が寄せられました。
今回はまだアイヌの位置づけについてあまり話されませんでしたが、いよいよ次回以降から本論に入るので楽しみです。