講座12 いしかり歴史大百科Ⅱ「そして、石狩湾新港は生まれた」
2010/10/16
10月14日(木)講座12いしかり歴史百科Ⅱ「そして、石狩新港は生まれた」の第1回「石狩港建設構想から着工まで」が花川北コミセンで行われました。講師は田中實さん、受講者は36名でした。
田中實さんは、新港建設の担当者として実際にたずさわって来られた経験の中でのご苦労や様々なエピソードを交えて、石狩に決定されるまでの新港建設構想の変遷について話されました。いつもながらですが、明治12年から始まる年譜とその時々の構想図面を添えた詳しい資料を用意されていました。
札幌近郊に港をつくるという構想は、明治12年、お雇い外国人技師のヨハン・ゴダード・ファンゲントが石狩川河口に築提して船舶出入りの便を図るという考えを報告したのが最初だそうです。
その後、様々な構想が立てられましたが、常に根底にあったのは、小樽と石狩のせめぎあいで,建設地を銭函にするか石狩にするかということでした。
地形からみると、小樽(銭函)は地盤が悪く後背地の広がりもないことから、砂地で地盤が安定し後背地も広い石狩の有利さもありましたが、当時人口9,000人の石狩が20万の小樽に対抗していくには大変な苦労があったようで、昭和43年には、新港建設最適地を調査する費用を石狩町が負担したこともあったようです。
こういう複雑な利害の絡むなか、その影響で新港の名称も候補が15例もあったとのこと。
しかし、昭和45年にようやく、新港建設地は石狩、管理は北海道、小樽市、石狩町の三者とすることが示されたのです。
ところが、小樽市も管理を行うということは、港が小樽市域になければならず、やむを得ず、港に接する石狩町域の一部を小樽市に編入することになったのでした。
地域割譲に対する町議会の反対の中、該当域の用地買収で住民を説得、ようやく町議会にも認められたとのこと。移住地域には、小学校、中学校、保育所、消防施設、水道施設などあったが閉鎖、墓地も動かしようがなくそのままになったとのこと。
また、用地買収が短期間で完了したのも、他に例を見ないことだったようです。移住した中で、札幌の銭湯を買い取った方がけっこういたというエピソードも披露されました。
当時の町村知事とのやりとりのことなども話されました。
こうして石狩湾新港は建設され、昭和57年に東埠頭の一部が供用されたのでした。
お話を聞いて、石狩新港の建設までには、困難な問題がたくさんあり、それをひとつひとつ乗り越えてようやく実現したのだということが、良く理解できました。
さらに、田中さんは、物事を理解するには、ある一面だけから見ないで、別の角度からも見てみないとダメですと言われ、新港の問題でも、小樽の立場から書かれた本も紹介されました。
このような田中さんのお話に対して、受講者からは
「石狩に新港ができるまでのやりとりやエピソードが大変おもしろかった」
「実務担当者としての田中さんの講演は生々しく大変参考になりました」
「様々な利害のからむ新港開発にかかわるエピソードを特に面白く拝聴しました」
「新港をつくる際、小樽港を持つ小樽市との間であつれきが相当あったと聞いていたが、その一端を聞くことができ、参考になった」
「新港が出来る際の生きた話を聞くことが出来てよかったです。小樽市との確執、知事とのやりとり、住民の理解を得るための苦労話など、大変興味深く聞かせてもらいました」
「田中さんが実際に関わった大事業であったため、話題の内容が豊富であり、生々しく、とても参考になり、理解することができました」
「田中先生の資料はいつも微に入り細をうがつ詳しさで、話も楽しいので感心します。ありがたいです」
「新港開発のご苦労が偲ばれました」
「田中さんの体験談を興味をもって拝聴しました。昭和52年から平成21年まで開発で港湾・漁港の仕事をしていました。今の時代は、情勢的にきびしいので、仕事に対する情熱等その成果をうらやましく思います」
「新港位置特定に至る経過が詳細に説明され良く理解でした」
等などの声が寄せられ、体験に伴う具体性のあるお話に皆さん引き込まれたようです。