講座13いしかり歴史百科Ⅲ「語り継ごう石狩空襲」
2010/11/06
11月4日(木)講座13いしかり歴史大百科Ⅲ「語り継ごう石狩空襲」の第1回「旧石狩地区空襲~八幡町・本町」が、花川北コミュニティセンターで行われました。講師は、石狩市教育委員会文化財課学芸員石橋孝夫さんで、受講者は26名でした。
石橋さんは戦後生まれですが、親から故郷である道南の森町空襲の話を聞かされ、このとき犠牲となった一人が親戚の子どもであったことから空襲へ身近な印象があったとのことでした。さらに昭和62年に石狩市郷土研究会がまとめた『石狩空襲を語り継ぐ』の作成にも関わり、「石狩空襲」の専門的知識を得てきたとのことでした。
北海道空襲については菊地慶一さんがまとめており、釧路空襲や帯広空襲など各地の郷土研究会も資料をまとめているとのことです。石橋さんの今回のお話は、これらの資料も参考に、1.北海道空襲の原因、2.北海道空襲はどのようにして行われたか、3.石狩空襲の詳細、について図や写真をまじえて具体的な空襲の状況について話をされました。
最初に石橋さんは、石狩空襲の概要について話をされました。空襲は、1945年(昭和20年)7月15日石狩市本町をはじめ、対岸の八幡町地区、生振地区、花川地区が米海軍艦載機による銃撃、爆撃を受け、死者13人、重軽傷者13名、被害家屋224戸900人、牛馬の損害4頭の被害状況が石狩市の「戦災記録簿」に記されているとのことです。この日の空襲は、厚田区望来、古潭、浜益区毘砂別、幌にもあったとのことで、「石狩空襲」はこのうちの「旧石狩市」を指し、望来等は「厚田空襲」、「浜益空襲」ともいわれているが、とくに被害の大きかった「望来」については「望来空襲」の名称で呼ばれることがあるとのことでした。
これらの空襲は、7月14日、15日に行われた「北海道空襲」と呼ばれる空襲の一部とのことで、全道では1925人が死亡し970人以上が負傷されたとしています。しかし、この数も確定されたものではなく、「北海道空襲」後65年を経過してもなお実態が不明な部分があるとのことです。
次回25日の講座で行われる「望来空襲」に関しては、望来町内会の編纂で『埋もれた墓標・望来空襲の記録』が刊行されており、望来小中学校にはこの記念碑や紙芝居などが作られているとのことです。浜益空襲については正式な記録がないものの先に挙げた菊地さんの調査では、「7月15日午後1時頃36機以上の艦載機が海上から飛来し、そのうち2機が毘砂別地区に爆弾2発を投下、幌地区では機銃掃射があったとされています」と伝えられているとのことです。
次の話は、北海道空襲はなぜ起こったかです。米軍は、日本の特攻攻撃の航空兵力を壊滅させるため東京大空襲や大阪大空襲を行っていたが、沖縄戦の進展から艦隊を北上させそれまで空襲を行っていなかった北海道や東北の攻撃を決めたとのことでした。続いて北海道空襲はどのように行われたかについて話が行われました。このあたりの話は、松本尚志さんが米国海軍資料をもとにまとめた資料を引用して行われました。7月14日、15日に北海道、東北北部への空襲、艦砲射撃に参加したのは、空母7、軽空母6、戦艦8、巡洋艦17、駆逐艦61におよぶ大艦隊だったとのことでした。最後に石橋さんは石狩空襲について、米軍の戦力と使用した爆弾や爆撃機の数や攻撃した建築物などの詳細を話されました。そしてこの「石狩空襲」は、あくまでも米軍の正規目標ではなく、悪天候により増毛などを攻撃する爆撃機が途中で旋回し北から石狩を攻撃したとのことでした。
参加者一同、初めて聞く「石狩空襲」や「北海道空襲」にただ驚くばかりでした。また、米軍の大艦隊の兵力にも驚くばかりでした。
受講者の声も多く一部を紹介させて頂きます。
「北海道空襲というと室蘭、釧路等が云われていましたが、石狩については初めてわかりびっくりしている」
「米軍による空襲は非常に計画的であったと同時に直接軍事目標でない石狩が天候の変化によって攻撃されるということも考えさせる」
「米軍の戦闘報告書及び情報収集能力等、状況・実態把握され、計画性、実行力、機動力、規模は、日本が無謀な戦いをしていたことがよくわかった」
「悲惨な状況が想像でき、2度と戦争を起こしてはならないと思います。また空襲体験をシリーズでやってほしい」
「大変読みやすく分かりやすい資料で(特にアメリカ側の資料も添えてあったので)石狩空襲の概要がよくわかりました」