講座14《芸術・文化コース》杉浦篤子さんと美術を楽しむ《アートって何?》
2010/11/03
11月2日(火)講座14《芸術・文化コース》杉浦篤子さんと美術を楽しむ『アートって何?』の第2回「イサム・ノグチとモエレ沼公園」が市民図書館視聴覚ホールで行われました。講師は、藤女子大学人間生活学部教授の杉浦篤子さん、受講者は19名でした。
杉浦さんは、美術の楽しさ、身近さについてお話をされた第1回に続いて、今回は、イサム・ノグチについて、その生い立ち、人となり、考え方、モエレ沼公園との結びつき、ムエレ沼公園の面白さなどについてビデオでの紹介を交えて話をされました。
杉浦さんは先ず 、モエレ沼公園に行ったことのある方は?という問いかけで話を始められ、公園という言葉が使われ始めたのは明治以降だが、実は日本での第1号は札幌の公園だったことを披露されました。
さて、イサム・ノグチの生い立ちですが、詩人の野口米次郎と米次郎の通訳や編集の手伝いをしていたレオニー・ギルモアを両親として1904年ロスアンゼルスで生まれました。正式な結婚ではなく、イサムが生まれた時、父はすでに日本へ帰国。イサムは2歳の時母に連れられて日本に渡ります。しかし両親との生活は数年で破局、その後は母に育てられました。また、いじめにあったイサムの慰みは手先の器用さを活かして物を作ることでした(母はイサムに大工道具一式を持たせた)
13歳で、アメリカの牧師の家庭(ここでは暖かく迎えられて初めて家庭のぬくもりを味わった)へ預けられましたが、日本でも、アメリカでも差別を受けたイサムは、日本人でもアメリカ人でもない自分について、自分は何者なのか、自分の拠り所は何なのかを、考える続けることになります。
イサムに大きな影響を与えた3人の人物がいます。芸術家になるよう勧めた野口英世、物の本質を現すことを目指した抽象彫刻家でイサムの生き方を決定づけたブランクーシそして「人類は宇宙船地球号の乗り組み員だ」と教えた建築家フラーです。
イサム・ノグチがモエレ沼公園を手掛けることになるのは、いくつかの要素がかみ合った結果でした。
先ず、イサムが香川県牟礼(むれ)町にアトリエを持ったこと。次に、イサムは「人はエジプトやカンボジアなど昔から夢のような風景を追い求めてきた」と考えそのような造形物をつくりたいと願っていたが、現在あるものをすべて壊してしまわないと出来ないほど大きな構想なので、ニューヨークを始めどの地でも実現しなかったこと。
一方、急激な人口増加に伴い公園づくりが課題となっていた札幌市は、環状グリーンベルト構想の一貫としてモエレ沼公園(ゴミ処理場として活用後公園化)の建設構想を模索していたこと。
このような両者の思いが結びついて、札幌の担当者からモエレ沼公園の説明を受けたイサムは強い関心を持ち、1988年3月に来札してマスタープランを描いたのでした。
ところが、何度かの修正を加えた図面を11月に書きあげたあと、イサムは12月に急逝してしまうのです。結局、イサムがモエレ沼公園に携わったのは、1年に満たない短い期間でした。
設計者が亡くなれば、通常はその計画も消えてしまうものですが、モエレ沼公園はその後もイサム・ノグチ財団の後押しで建設に向けて計画が進められました。
これは、イサムが常々、それぞれの施設を作る時に参考にすべき既存の施設を具体的に告げていたことが、大いに役立ったのです(彼は、これらの物を参考にすれば、自分がいなくてもモエレ沼公園は完成できると語っていた)
こうして、モエレ沼公園は完成するのですが、公園の特徴、面白さはビデオで紹介されました。
ガラスのピラミッド、モエレ山、イサムの永年の夢だったプレイマウンテン、テトラマウンドなどイサム・ノグチの考えを具現化した構造物の数々や実際のイサムの姿、イサムと関わった人たちのコメント等の映像を見ることでイサムの人となりやモエレ沼公園の実景が良く分かりました。
杉浦さんは、イサム・ノグチの壮大な構想とそれを実現したモエレ沼公園のスケールの大きさを、淡々とした語り口で分かりやすく伝えられたのでした。
受講者からも
「公園一つ造るにも色々なことがあるものだ、又モエレ沼に関してはイサム・ノグチのスケールの大きさ緻密さ、市長を始めとする行政の力が多く感じた」
「こういう講演を聞いてから今まで漫然と見てきたものが生きてくるとつくづく思いました。これからもこのような講座を期待します」
「イサム・ノグチの考え方が良く分かったが、亡くなったあとも公園作りを進めた札幌市の考えに感心しました」
「先回と今回のお話を聞いて,是非美唄とモエレ沼公園を訪れてみたいと思いました。それぞれの彫刻家のすばらしい生き様に感動しました」
などの声が寄せられました。
最後に、次回のキャンドル作りの案内があって、今日の講演は終了しました。