まちの先生企画講座3『波乱万丈の人生を語る』~紆余曲折の人生から得た生きる力~
2010/12/22
12月21日(火)まちの先生企画講座3「波乱万丈の人生を語る」~紆余曲折の人生から得た生きる力~の第2回「ようやく、石狩に落ち着いて」が石狩市公民館で行われました。講師は、まちの先生・渡辺みつさん、聞き手が高橋美恵子さん。参加者は24名でした。
前回、後ろの席は、話し手の渡辺さんと距離ができて、アンケートでも"遠く感じた"との声があったことから、今回は机を置かず椅子だけで講師を囲むような会場設定としました。
最初は、「これまでで、一番楽しかったことは何ですか?」という前回の質問に答えることでした。
「そうですねえ、一番楽しかったのは、この15年くらいで何回も行った外国旅行でしょうかねえ」と渡辺さん。
そして、中国から日本へ帰って来たところから話が始まりました。
「昭和23年の10月に日本へ帰ってきたのですが、父さん(ご主人)の実家は11人家族で暮らしも大変でした。私も、どこの馬の骨とも分からない人間、と云われてなかなかなじんでもらえませんでした。網走に居た父が、そんな私を心配して、11月に、自分のところに来いと手紙をくれました。おじいちゃんに、こんな何もわからない者が居てもご迷惑をかけるので、もう一度修行し直して来ます、と話をして父の所へ行くのを許してもらいました。おじいちゃんは父さんと私の二人分の切符を買ってくれて、12月に網走へ立ちました」
「住んだ家は、6畳くらいの部屋で、ダイズ殻の上に麦わらを敷きその上に毛布をかけたようなところでした。父も開拓で、貧乏でしたが、ジャガイモやカボチャだけはお腹いっぱい食べられました」
「父は父さんを山へ連れて行き色々教え込もうとしましたが、体の華奢な父さんには難しいことでした。隣のおじさんが見かねて、渡辺君は、お父さんと一緒に仕事をさせても無理だと思うと云い、前の勤務先の網走刑務所を紹介してくれました」
「父さんは4月に網走刑務所に就職し、その年の暮れに官舎に入る事が出来ました。官舎に入る時に用意した家具は、ちゃぶ台と水桶だけでした」
「官舎は板壁の節穴が抜けたら隣が覗けるほど隣同士密着したものでした。購買で食料品が給料清算で買えるので助かりました。翌年(S25年)次女と年子で長男が生まれました。私も人から見たら幼い様子をしていたのでしょう、お客さんによく、お母さんはいますか?と聞かれました」
「食料品は購買で買えるので、食べることには困らなかったのですが、清算すると給料は赤字となるので、現金がなく、長女のPTA会費や給食代を払うのに困りました」
「それで、私は水産加工所に出面取りに出ました。スケソウダラの内臓を抜きとる仕事です」
「そんなくらしをしている時、次女の股関節脱臼が分かりました。仕事をしているので、病院へ連れて行く事が出来ず、妹に頼んで連れて行って貰いました。次女にシラミがいっぱいたかっていたこともあります」
「S31年に父さんの弟が来て3年ほど一緒にくらしましたが、体を壊して四国に帰りました。入れ違いに別の弟がやって来たのですが、これは3ヵ月で帰りほっとしました」
「30年に生まれた次男が3歳になった頃、今の保育所のような所に預けて、潜水夫にポンプで空気を送り込む仕事につきました。モグリが1人、合図役1人、ポンプ押し2人の4人で組む仕事です。潮風に吹かれて、日焼けでひどい顔になりましたが、自分ではなんとも思いませんでした」
「この仕事では、二人が亡くなるのを目撃しました。一人は潜水中脳梗塞を起こして、もう一人は事故で挟まれて亡くなったのです」
「でも、官舎では楽しいこともいっぱいあったんです。同じ官舎の人が誘いに来てくれて、子供を寝かしつけて、出かけたんです。マージャン、花札、ダンスなど色々やりました」
「着るものまでは、お金が廻らなかったので、中国の時の支那服ばかり着ていました。それで、支那人が居る、と噂されました」
「お金の事では、こんな事もありました。1万円札が発行された時(S33年)の事です。給料が1万いくらになり、嬉しくて、1万円札を見ようと袋から出そうとしたら、風に飛ばされてしまったのです。必死で追いかけて、やっとのことで捕まえました、逃すもんですか!」
「そうこうしているうちに、次男が喘息にかかりました。仕事はやめられないので、この時は近所の人が助けてくれました」
「潜水の仕事は夏だけで、それも海が荒れると出来ない仕事だったので、そんな時にはテトラポットを作る手伝いをしていました。ボルトやナットを必要量だけ揃える仕事です。潜水でもテトラポットでも仕事は一生懸命やったので、会社でも私のことを最後まで大事にしてくれました」
「S49~50年頃、内外緑地という会社がセールスに来て、石狩の土地を買うことになりました。父さんも図面などを眺めて楽しそうでした」
「S56年、父さんが退職し、石狩に移りました」
※ここで、参加した皆さんが、昭和48~56年頃の南地区の様子の思い出話をそれぞれ語り出して、ひとしきり話が弾んだのでした。
「結局、官舎には30年住みました。寝ていると雪で顔が白くなるような所でしたが、住む所があった、ということに私は大変感謝しています。また、あんな良い人間関係はなかったと思います。味噌、しょうゆは当たり前、ご飯1膳も隣と貸し借りしていました」
「そういえば、S52年頃から、父さんと二人きりになって生活も落ち着いたので、婦人雑誌を見て見よう見まねで、レース編みやパッチワークを始めました」
「石狩に来てからは、札幌へ仕事に出ました。旅館業を営む家でお手伝いの仕事です。なかなか厳しい家で、身分の違いなども実感しましたが、それでも私は気に入られたようで、10年勤めました」
「私はこれまで、どんな仕事でも一生懸命やってきました。ズルガシコク立ち回るのは嫌ですが、私のように一生懸命にやりすぎるのも、どうかと、今では思います」
「でも、仕事を一生懸命やった分、子供達には苦労をかけたと、思っています」
※ここで、参加されていた次男のお嫁さんから、良い姑です、とのコメントが入りました。
「私の母は脳梗塞で倒れ、父は胃がんで亡くなったので、常々自分も危険があると思っていました。ある時、お腹にしこりが出来たので、心配になり北12条の大黒病院で調べてもらったことがあります。幸い、別状なかったので、嬉しくて、北12条から石狩歩いて帰って来ました」
「平成7年9月20日の朝でした。起きようと思ったら、体がグズグズになって、糸の切れた操り人形のようにへたばってしまうのです。2階から階段をずり降りて、粗相をしては困ると思い、トイレだけはなんとか済ませて、居間で横になりました。父さんが起きてきて、私がいびきをかいているのに気がつき、すぐに救急車を呼びました。私は、どこも痛くもなく吐き気もしないので、大丈夫と言ったのですが、日頃おとなしい父さんがこの時だけは私の言う事をききませんでした」
「結果的に、父さんのこの対応が良かったのです。あのまま、家に居たらどうなっていたでしょう」
「中国に両親と別れて残る時も、結婚してくれた父さんに命を助けてもらったと思いましたが、今度もまた、父さんに命を助けられたのでした」
「病院に入って、MRI検査をした時です。中国で家族が匪賊に襲われている時のただ中に居ると錯覚しました。ガンガンというMRIの音が鉄砲の音に思えたのですね(この時、父は母を置き去りにして逃げてしまい後で母は随分怒っていました)」
今回のお話は、ここで終了しました。最後のお話は、次回1月18日です。つらい体験や悲惨なお話も、渡辺さんはユーモアを交えながら淡々と話されたので、それがかえって渡辺さんの懸命な生き方を浮き彫りにして、皆さん大変感銘を受けられたようです。2回目とあって、渡辺さんと受講者とのコミュニケーションも充分で非常に和やかな雰囲気でお話が進んだのでした。コメントもたくさん寄せられました。
「今後も今回の様な身近な体験談をお聞かせ願います」
「相変わらずユーモアをまじえた話ぶりで楽しく聞きました」
「郷土史と同じくらい参考になった。幹部になるようなしっかりした人と思います。子供も沢山育てられた生き方に万歳!!」
「中国から網走へ帰ってから4人の子供をかかえ『衣食住』どれをとっても大変な事のようですが私方もそんな経験をしながら育ちました。経済的にも苦労が多かったようです」
「住まいの話などは、自分のこと等思い出しながらききました」
「終戦のころの生活を思い出しました。国民みんなが貧乏をしていた時に引き揚げ者は大変だったと思います」
「人生に対して前向きに生きた内容が良かったです。渡辺さんとの質問が次の内容につながり暖かい雰囲気でした」
「渡辺みつさんの笑顔がとても良かった。苦労の多さと半比例しているようですね」
「何事にも一生懸命にやられてきたとの事。だから悔いがないと言われるみつさんは素晴らしいですね。辛い事ばかりではなくて人生を楽しむ事にも前向きに生きてこられた事は素晴らしいですね」
「苦労話をユーモアを交えて楽しく話されているのがとても感心しました。これからも元気で長生きされますように」
「楽しいお話で、あっという間に時間が過ぎました」
「ほんとうに波乱万丈。でもそれを苦労と思わず前向きに生きる、すごーい、すばらしい人生を生きる感動、感激・涙々です。どうぞ100歳まで生きて下さいネ。話術も素敵ですね。私もホルムスク生まれ、引揚者、私は稚内に上陸でした」