講座3 村山耀一さんと歩く石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡~
2011/05/29
5月27日(金)講座3 村山耀一さんと歩く石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡~の第1回「本町、八幡地区の碑を訪ねて」を行いました。
講師は石狩市郷土研究会会長の村山耀一さん、受講者は20名でした。
石狩市公民館に集合してバスで巡回しましたが、村山さんは現地に着く前にバスの中で今日の資料についての説明と石狩の歴史の概略を話されました。
資料は、いつもながら詳細なもので、巡回予定の各碑の解説に加えて、巡回ルート地図、明治29年製版明治45年修正地図、明治38年本町・八幡地区市街図、石狩市のあゆみ、本町・八幡地区中心の石狩のあゆみ、村山家沿革、石狩実業家案内などが添付してありました。
紅葉山49号遺跡により石狩には4,000年前から人がくらしていたことが分かる。1605(慶長10)年頃に松前藩石狩場所が開設された。1706(宝永3)年初代村山伝兵衛が石狩川流域の場所を請負った。1857(安政3)年幕府は石狩場所での請負人制を廃止し直轄とした。石狩調査役並荒井金助が「石狩改革」を実行した。1868(明治2)年「蝦夷地」から「北海道」となる。1871(明治4)年戸籍法制定により石狩町と命名された。
最初に訪れたのは、樺太アイヌの碑でした(来札で亡くなった樺太アイヌのため豊川重雄など関係者の強い希望を受け2002年石狩市が建立)
1875(明治8)年の日本・ロシア樺太・千島交換条約により、日本政府は樺太南部に住んでいた樺太アイヌと千島アイヌを北海道や近くの島に移住させようとした。樺太アイヌの人たち841人は最初は宗谷地方、翌年江別対雁(ついしかり)に強制移住させられた。その後多くが漁場に近い石狩の来札などに移住した。しかし、1880(明治13)年には流行したコレラに冒され、1886(明治19)年の天然痘、コレラ大流行では300人以上が亡くなった。1905(明治38)年の日露戦争講和条約により日本の領土となった樺太南部にようやく帰ることができた。
ここでは、作られた明治25年には砂嘴(さし)のほぼ突端にあった石狩灯台が、いまでは砂嘴の突端よりかなり手前に位置していることから、明治25年から現在までに砂嘴がかなり伸びていることを学びました。
○石狩八幡神社、石狩八幡神社石鳥居、記念碑、大禮記念、石狩弁天社手水鉢、御神燈軸石、玉垣、狛犬、御神燈
石狩八幡神社は1858(安政5)年箱館総社八幡宮の末社として現石狩八幡町に創立された。その後1874(明治7)年開拓使の命で弁天社地内に移設された(弁天社は村山家内神ということで同家所有地の現在地へ移された)が鳥居は弁天社のものである。その鳥居の柱に道内最古の「秋味」という文字が彫られていて「秋味」と云う言葉がいつ頃から使われていたかが類推できる。
また、社内に据え置かれている石狩弁天社手水鉢は、願主が江戸本材木町の小林屋宗九郎の関係者と思われ、側面には南部大畑村の彫字があり、大畑村(現青森県下北郡)は石狩山林のエゾヒノキを請け負った飛騨屋久兵衛の木材店があった地である。このことから、この手水鉢は、石狩が漁業だけではなく江戸との木材交易の拠点であったことを証する貴重な資料である。
社内の御神燈軸石は、石狩役所主宰の井上弥吉により奉献された木戸孝允筆の「文武一徳」「肇域四方」の八字を彫りこんだ石灯篭の一部を第3代の岡村社司が台座に由来を記して碑としたもの。
○宝珠山 金竜寺(日蓮宗)、手水鉢、天野傳左衛門正庸の墓、村田小一郎の墓
手水鉢はもとは石狩弁天社にあり北前船で運ばれた石狩で最も古いものである。
法性寺は有珠善光寺の末寺として創立され、徳川家菩提寺増上寺の内仏を本尊に賜ったので、玄関のガラス戸には葵の紋が記されている。
・石狩川鮭獲り―アイヌの人々は丸木舟をたくみにあやつり生活の根幹となる鮭を獲った。
・運上屋―場所請負人の交易所で支配人、通詞、帳役、番人などが詰め合い、通行人の宿泊所なども設けられていた。
・北前船と近代貨物船―江戸時代、上方から蝦夷地までを日本海廻りでつないだ買積制度の船、石狩で獲れた鮭はこの船で運ばれた。大型貨 物船は石狩湾新港に本州方面よりセメント運搬しているセメントタンカー船。
・鮭地曳網漁―石狩川河口では江戸時代から鮭地曳網漁が行われていた。
・農耕―石狩の砂地水田は、昭和2年花畔十線に始まり昭和22年以降市内全域に広がった。
・荒井金助―1857(安政4)年箱館奉行所石狩詰役所へ赴任。幕府の基本方針である北辺の防備と石狩場所の改革(請負人制を廃して幕府が 直接経営し、利益を石狩場所内の開発にあてるとともに鮭の保護のため禁漁区を設けた。また石狩へ移住する者には木材を貸し与え、アイヌへの不当な扱いを止めさせた)
秩父事件の中心人物の一人井上伝蔵は、明治21年頃石狩に移り住み伊藤房次郎の変名で代書・小間物文具商を営み約23年間石狩で生活した。明治25年頃に高浜ミキと再婚、三男三女をもうけた。碑文は、俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭り、という柳蛙(伝蔵の俳号)の句。
○石狩弁天社、石狩弁天社手水石、御神燈、北千島沖流網之碑、楽山居
石狩弁天社は、1694(元禄7)年松前藩家臣山下伴左衛門により「鮭の豊漁・海上安全」を祈願して建てられたと伝えられる。社殿の内外には、鰐口、絵額、御神燈、手水石などがあり、全国との交易に栄えた当時の石狩をしのばせるばかりではなく、北海道の漁業信仰史を考える上でも貴重な文化遺産である。主神の弁天さまのほか「鰈鮫」を神格化した「妙亀法鮫大明神」がまつられている。
資料館では志賀学芸員の案内により紅葉山49遺跡などを見学。旧長野商店では、ジオラマによる往時の本町地区の様子を学びました。また、長野商店に付けられた卯建(うだつ)も観察。
中島家は、佐渡出身の伍作が明治13年に小樽から石狩に転居して荒物屋を営んだ。伍作の没後番頭の鎌田幹六が中島家を盛りたてた。また、当時の石狩では俳句結社「尚古社」が隆盛で、幹六はそのリーダー(俳号・池菱)として力をつくした。残された旧派俳諧資料は、幹六の孫、曾孫の中島勝人、勝久が建てた私設資料館「尚古社」に納められている。
昭和22年開校、その後、石狩、生振、高岡の三中学校が統合して移転した。石狩小学校は、今では珍しくなった円形校舎。
○開拓使石狩罐詰所跡説明板、石狩警察署碑、讃石狩郷の碑
缶詰め工場は1877(明治10)年に設置された我が国最初のもの。
○常行山 能量寺(真宗大谷派)大谷句仏句碑、山田文右衛門の墓、藤田家累代之墓、井尻家の墓
大谷句仏(本名光演)は東本願寺第23世管長で昭和2年と3年に北海道布教のため来道(その折の写真が旧長野商店内に展示)句碑は、その時残した句、石狩は鮭の魚飯に名残あり、を碑文としたもの。
山田文右衛門は、陶器の破片に昆布が根付いているのを発見し、日高沙流の沿海で昆布の着礁を試み、研究を重ねて57トンにも達する昆布生産量をあげて、その一部は幕府にも献上された。
○親船墓地―村山家墓、長野家之墓、加藤家累代之墓
村山家は、松前の巨商で場所請負人。初代伝兵衛は能登国羽咋郡阿部屋村出身。三代伝兵衛時代には石狩場所を根拠地として宗谷、東蝦夷地、国後など約20余の場所を請け負い、所有船は102隻にも及んでその富は松前一と云われた。しかし、ねたみを受け藩より家屋や場所などを没収された。その後還付されたが、往時の勢力回復には至らなかった。1858(安政5)年幕府は石狩場所請負を廃止して直轄とし、村山家(当主伝次郎)は一出稼漁業者として数か所の漁場を割り当てられた。明治41年に(八代目栄蔵)小樽市に移転。講師の村山耀一さんは十代目当主。
江戸時代から蝦夷地一番の漁獲量をあげていた石狩の鮭場所は明治期に入って豊漁が続き、明治6年の記録では2000人の出稼ぎ人が入り込んだと云う。そのような時代背景の中、越後国出身の長野徳太郎は、呉服・太物・雑貨・酒造等を商って栄えた。その店舗旧長野商店は、石狩本町地区が火災が多かったことから木骨石造になっていて、1994(平成6)年に市の文化財第4号に指定された。
昼食をはさみ、本町、八幡地区の碑を巡った本日の講座では、講師の村山さんのポイントを捉えた詳細な説明を聞いて、鮭漁で栄えた往時の石狩のことが大変良くわかり、たくさんの事を学ぶことが出来ました。また、弁天歴史公園では、いしかりガイドボランティアの瀬野さんにもご説明頂きお世話になりました。最後は、詳しい資料を作って頂き、大変丁寧に説明して頂いた村山さんに改めて感謝しながら解散したのでした。