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講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」

第2回南線地区・了恵寺の碑を訪ねて

2011/06/05

  6月3日(金)講座3 村山耀一さんと歩く『石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡』の第2回「南線地区・了恵寺の碑を訪ねて」を行い、石狩市公民館に集まってバスで循環して碑を訪ねました。講師は、石狩市郷土研究会会長 村山耀一さん、受講者は27名でした。

 村山さんが最初に説明をされた資料は、今日の巡回経路図、「南線」呼称の由来、南線神社の位置変遷図、明治39年発行「石狩明細地図」、昭和39年発行「石狩明細地図」、昭和43年発行「石狩明細地図」、福田藤男・カメヲ著『金婚記念誌』、石狩市のあゆみ、各碑説明と今回も大変詳細なものでした。

 そして、石狩市のあゆみの中で、戸籍法制定により石狩町と命名された1871(明治4)年、樽川村が開村した1882(明治15)年、新川が竣工した1887(明治20)年、花畔、生振、軽川(含樽川)の原野に殖民地区画が測設され土地貸付が許可された1893(明治26)年、花畔村防風林保護規約が定められた1899(明治32)年が今日の話のポイントなので注意してください、と言われました。

 「花川南にお住みの方はどのくらいいますか?」「実は、花川北はそうではないのですが、花川南地区は殖民地区画に基づいて街が作られているので碁盤の目になっていて明治の頃の街の様子を生活の中で実感できるのです」

3-2-78.JPG  「またこの地区は、砂地と泥炭地が100m間隔で交互に縞模様に分布していて、排水が一番問題だったのです」

 「殖民地区画は新十津川やアメリカを参考に作られ、1戸あたり1万5,000坪(150間×100間)が貸付られました。地番は、石狩町内の軽川原野では新川を基準として北へ向かって第1線から第12線まで、一方花畔原野では南へ向かって14線まで区画されていました。"南線"という呼称の由来は、明治35年に花畔村と樽川村が合併して花川村となった際、同じ地番呼称となるのを避けるため新川からの区分は『南』花畔の区分には『北』を頭に付けて呼称したのが始まりではないかと思われます」

 このように、今日のポイントの話を聞いているうちに現地へ着きました。

○南線地区開発記念碑、旧紅葉山小学校校舎
 
 明治4年に拓かれ、昭和24年には251町歩の水田が開かれたこの地は昭和39年と昭和46年に住宅団地用地として売却された。南線地区開発記念碑は、先人の遺業と団地開発への協力の志を伝えるために1972(昭和47)年に建立された。

3-2-5.JPG 旧紅葉山小学校は、昭和54年に旧若葉小学校より分離独立、昭和59年には1490人の児童を擁したが平成22年若葉小学校と統合のため閉校。平成23年度より、北海道星置養護学校石狩紅葉山校舎、石狩市学び交流センターとなっている。

○紅葉山 龍徳寺、紅葉山49号遺跡

 龍徳寺(曹洞宗)は、1983(昭和58)年札幌移転した小樽龍徳寺檀家の要望で設立。

 紅葉山49号遺跡―平成7年から平成14年にかけて発掘調査。縄文時代前期後半から中期後半(5,000年前から4,000年前)続縄文時代初頭(2,000年前)擦紋時代初頭(800年前)江戸時代後期(200年前)の各時代の人々の使っていた木製の漁労施設と器などの生活道具が出土。
湿地のなかで水漬け状態になった「低湿地遺跡」で全国的にも稀少性のあるものである。前回訪れた「砂丘の風資料館」で「えり」など紅葉山49号遺跡の出土品を観察した。

○大誓山 永泉寺(浄土真宗大谷派)、紅葉山33号遺跡、斜め防風林

 紅葉山33号遺跡は、昭和57年の調査で32基の2,000年前ごろの続縄文時代恵山文化の墓が出土。第46号墓からは魚形石器や飾り弓(白木に木炭粉を塗りその上に赤漆を塗ったもの、弓のほぼ全体のかたちがうかがえるものは日本で唯一。前回砂丘の風資料館でそのレプリカを観察)が出土。

3-2-7.JPGのサムネール画像 斜め防風林―花川南公園から石狩湾に向かって真北に伸びる防風林。当初5.3mあったが石狩湾新港の建設により現在は4㎞に短縮されている。花畔村の人々は「風防林保護規約」(明治32年)を作り防風林を保護した。防風林の防風効果は、風上側で樹高の5~7倍、風下側で35倍前後と云われる。また戦時中には、戦闘機を隠す為の格納庫を作る作業が行われ、戦闘機も運ばれた。

2011-06-03.jpgのサムネール画像○二等三角点 樽川Ⅱ

 花川南中学校校庭に設置されている。

3-2-15.JPG○供養塔、還暦の碑、福田牧場発祥の地

 樽川地区では、5町歩の殖民地区画をイメージできるようなサイロのある農地を見学。
3-2-74.JPG樽川地区にあった極東農場は、この地区の酪農発展に寄与したがその歴史は、明治41年に興農園が樽川村に土地取得、その後極東練乳株式会社(後の明治乳業)に経営委譲したもの。同社は農場を開設して乳牛の繁殖に力を入れた。戦後の造田化の中で他の地区では下火になった酪農は、南線、樽川地区だけは水田、酪農混合経営が成功して発展を続けた。しかし、昭和39年南線地区宅地造成、昭和46年花畔南地区住宅公団宅地造成につづき石狩湾新港開発に伴う用地買収により酪農家は減っていった。

 還暦の碑、福田牧場発祥の地碑―樽川の川尻氏宅内にある酪農家福田藤男建立の碑(福田藤男が書いた当時の地域図も藤男の娘さんから見せてもらいました)

2011-06-031.jpg3-2-32.JPG○景雲山 東嶺寺(曹洞宗)馬頭観世音菩薩

○南線神社、南線神社碑、南線神社創建百年碑、町村農場発祥之地、開田之碑、牛馬大神碑

 南線神社は、明治30年ころ讃岐の金毘羅さんより御分札を受けて創設された。これまで4回ほど遷座され、現在地には昭和45年に遷座された。

3-2-36.JPG 町村農場発祥之地―明治30年町村金弥が120町歩の農場をこの地に創設した。アメリカで学んだ長男敬貴は牧場を創業したが、昭和3年土地を自作農に開放して江別に移転した。

3-2-40.JPG○了恵寺、百年記念宝蔵館、地蔵尊、創田之碑、浄土三部経、六畜謝恩之碑、経蔵之碑、了玄法師顕彰碑、殉国写経塔、南線小学校奉安殿と門柱、倶会一処五輪塔墓、石狩市記念保護樹木「栗の二本木」

 了恵寺では、二班に分かれて、宝蔵館見学と碑巡りを交代で行いました。

 了恵寺―真宗興正派、1894(明治27)年創立。

3-2-49.JPG 百年記念宝蔵館―寺の開基百年を記念して建てられ平成3年に完成した。平安から江戸時代にかけての仏画や木像などの法宝物・古文書などのほかに、現住職憲了氏収集の諸史料が収蔵展示されている。

3-2-44.JPG 宝蔵館では、住職にご案内頂き、お茶とお菓子も頂戴しました。たくさんの古銭などを見て、時代の流れを感じることができました。

 「栗の二本木」―平成3年に石狩町自然保護条例で、花川小学校"イチョウの二本木"、立江寺"やなぎの一本木"とともに記念保護樹木に指定された。石狩市付近は日本の自生栗の北限。

3-2-69.JPG 創田之碑―昭和23年、花川地域では一番古い水田25haが造田され、発寒川より揚水した。この碑はそれを記念して昭和32年に建立され、昭和62年に了恵寺境内に移設された。

3-2-51.JPG 南線小学校奉安殿と門柱―南線小学校にあった奉安殿(天皇・皇后の写真・教育勅語謄本などを納める施設で学校の敷地内につくられた)は花川小学校から移設されたもので、終戦後了恵寺に移設された。門柱はもともと北海道庁石狩川治水事務所花畔工場の門柱で、同工場廃止後は花川小学校、次いで南線小学校の門柱となったが平成15年に了恵寺に移転された。

3-2-65.JPG その外にも境内には歌碑、句碑などがありました。

 今回の南線地区の巡回では、開拓から畑作・酪農を経て戦後は水田化次いで宅地化と時代の流れにより変遷したこの地区の状況が良く理解できたのでした。村山さんのいつもながらの丁寧な説明による案内に感謝して、お昼過ぎに市公民館に戻って解散しました。

 

 

 




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