講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」
2011/06/19
6月17日(金)講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」の第3回「生振地区の碑を訪ねて」を行いました。石狩市公民館に集まりバスで巡回、講師は石狩市郷土研究会会長 村山耀一さん、受講者は、26名でした。
いつもながらですが、今回も、地図だけでも4枚(今日の巡回ルート図、生振地区の主な入植地、渡船場位置図、生振村全図)も添付された詳しい資料が用意されていました。
村山さんから資料の説明と、今日のポイント(生振地区への入殖が始まった明治4年、山口県から18戸が入殖した明治18年、濃尾大地震が起こった明治24年、濃尾大地震で被害を受け、春日井郡より愛知団体が生振に入殖した明治27年など)についてのお話を聞きながら現地へ向かいました。
○石狩花畔土地改良区の碑、ハルニレの木
土地改良区とは、農業用水、排水施設、区画整理、農用地の造成・改良保全・客土などの土地改良事業を行う法人。ハルニレの木は、推定樹齢300年、北海道自然保護条例による記念保護樹に指定されている。明治4年の宮城・山形県からの入殖による開村、明治27年の愛知県団体移住による開拓の進展を経て今日に至る生振村のシンボルであり、入殖者が方向を見定める目印であった。
○参泉小学校跡碑、妙法山 春光寺(臨済宗妙心寺派)
移住後生活していくには、子供たちの学校やお寺などが必要であり、参泉小学校は明治35年に参泉分教場として新築され、同36年に生振小学校参泉分教場として創設、昭和28年に生振小学校と統合移設された。春光寺は、大正2年創設。境内には、愛知県移住団体長 長江家の墓がある。
また、生振地区は、石狩郵便局と花畔郵便局二つの郵便局管轄に二分されていた。
○土木学会選奨土木遺産認定碑、殉職碑、石狩川治水発祥之碑
これらの碑は、石狩川における最初の切換工事である生振捷水路(大正7年着工、昭和6年完成)を記念したもの。工事中は、一次的な市街地が出来、商店、床屋、芝居小屋などもあり、盆踊りなどもにぎやかに行われた。また、工事の安全を願って「香取神社」が創建された。
○生振観音堂(宗教法人には属せず。車窓より観察)
中田伊佐次郎とその父庄次郎の霊感により開堂。伊佐次郎は、霊感で万病を治し、道内はもとより樺太などからも人が集まって、境内には二軒の旅館が建てられたほどであった。
○豊川アンノラン墓碑
豊川アンノランは、石狩アイヌのエカシ(長老)でヤウスバ鮭漁場を経営し、近くに入殖した米沢地方の団体に助言協力した。樺太アイヌと協力して製造した燻製鮭は内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。現札幌アイヌ文化協会会長の豊川重雄は孫に当たる。
○生振神社、和敬芳、記念碑、長江常三郎顕彰記念碑、愛知県団体開拓百年碑、愛知県団体開拓百年の説明碑
生振神社は明治36年創立。和敬芳は愛知県団体の記念碑。愛知県団体は、明治24年の濃尾大地震で被害を受けて明治27年に愛知県春日井郡から西生振に入殖した人たち。開拓の困難を、固い団結力で乗り切った。長江常三郎は、愛知県団体の総代人で団体員のために低利で融通したり窮乏を助けたりして尽くした。
○開村記念公園碑、中島源五郎句碑、生振開村百二十年碑、生振開村百二十年碑の説明碑、戦没者慰霊平和祈念碑、水鴻恩、開田之碑、岩鉄
揚水機、学校田
創生園は、平成2年に生振開村120年を記念して、生振小学校旧跡地に造られた公園で、園内には村内に関する各碑と旧石狩川から水を汲みあげた「水田揚水大型ポンプ」や戦時中まで採掘した「岩鉄塊」などが置かれている。多くの碑は、愛知県団体の固い結束力や強い思いの表れである。
○特認開校記念碑、開校百年碑、供養碑、生振中学校統合記念碑、元生振尋常高等小学校門柱他
生振小学校は、明治29年創立、初代校長中島源五郎は桃下と云う俳号を持ち、俳句結社・尚古社の幹部としても活躍した。昭和56年、火災により校舎全焼。昭和59年、全町通学区の特認校の指定を受ける。供養碑は、児童の発案により、教材に使われたカエル、バッタ、チョウなどの霊を慰めるために建てられた。また、校庭内には、これまで変遷した小学校、中学校の各門柱が保存されている。
○筋違防風林、茨戸油田(車中説明)
筋違防風林に沿って走る車中で茨戸油田の説明を受ける。
○聖恩、生振農協跡碑、馬頭観世堂
聖恩は、開村以来生振発展のために多大な尽力をした先人たちへの謝意を表した碑。
生振捷水路完成後、昭和10年に古川(茨戸川)の右岸を埋め立てて狭くした所に架けられた橋、札幌への往来の便が大変良くなった。
○石狩川護岸工事起点碑、石狩川護岸工事終点碑
起点碑は大正5年着手の護岸工事の起点碑を復元したもので、実物は強化ガラスで蓋をして台座に横たえてある。護岸工事には、石狩川治水事務所初代所長の岡崎文吉が考案した単床ブロックが使われた。なお、終点碑は、実物の標柱を納めたガラスの蓋が破壊されていた。
今回は、開拓にまつわる碑や、生活に関わる学校、神社、お寺、石狩川の洪水との闘いを示す碑、またその水を水田揚水として利用した機械などを資料の地図と照らし合わせながら見て廻り、明治の頃からのこの地区の人々の暮らし振りが良く分かりました。
村山さんは、終点碑を納めたガラス蓋が破壊されていたことも踏まえて、先人の足跡は、私たちが受け継いだ財産であるから、これをきちんと残して次世代に伝えていかなければいけないのです、と結ばれました。
最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつか、ご紹介します。
「開拓者の団結に感心しました。石狩川改修の歴史が解った。(ガラスが壊されていた)最後の碑は残念でした」
「市内の貴重な石碑の地図をまとめ後世に伝えておきたい、そして小、中学校の教材にも利用しては、と考えます。市史と併せ是非石狩の遺産としてまとめたものが必要だ、と今回わかりました」
「生振地区開拓の苦労は想像を絶するものがあったと思う。開墾の労力、石狩川治水事業にかけた先人の熱意と苦労を知った」
「生振地区巡りにはじめて参加して、こんなにたくさんの石碑があることに改めて感動しました」
「天候に恵まれ楽しく研修させて頂きました。資料の作成等スタッフの皆さんの苦労に深く感謝申し上げます」
「石狩に住んでいても生振を知らないできたが、水田を目にしてとても素敵でした。ゆっくりまたお寺など見に行きたいです。石狩の歴史の多さにびっくりする」