講座4「田中實さんが語る~石狩の歴史再発見」
2011/06/16
講座4「田中實さんが語る~石狩の歴史再発見」の第1回「明治期に石狩に来た外国人~クラーク博士が石狩で試作した日本最初の洋式缶詰など」を花川北コミュニティーセンターで行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん。受講者は43名でした。
田中さんは、先ず13頁にわたる詳細な資料について説明され、この資料の内容をすべてお話しようとすると90分ではとても足りませんので、全体をかいつまんでお話します、後で資料をよく読んでください、またお話の中では、出来るだけこれまで話していないことや、今まで一度も書かれていない事も盛り込んで進めていきたいと思います、と言われました。
そして、石狩には多くの外国人が訪れているので順を追って説明しますと、今日のお話が始まりました。
ロシア正使レザノフ乗船クルーゼンシュテルン率いる二艘の軍艦が石狩湾に滞留して状況調査を行った。
長崎での通商交渉を幕府に拒絶され、日本沿岸を調査しながらの帰り道に石狩に来た。ロシア船は所持の地図に記載のある石狩から太平洋に抜ける海峡を探し当然見つからなかったが、石狩川の存在を推測した。また、石狩湾をストロゴノフ湾と呼んだが、明治のお雇い外国人のケプロンもこの名を使っていて、石狩湾に初めて付けられた名前である。
○1867(慶応3)年
プロシャ王国日本駐在フォン・ブラント領事が函館の貿易商 R・ガルトネル等と蝦夷地を調査した際石狩を訪れた。
ブラントは石狩を訪問した最初の外国人となる。ガルトネル(ゲルトナー)は、函館・七飯に農場を持ちブナや牧草を取り入れた。従来、北海道農業はアメリカ式農業が導入されたと云われているが、実際は、ケプロンやクラークも七飯の農場を視察しており、農機具も同じものが使用されているので、北海道農業は七飯のドイツ式で始まったのである。
○1871(明治4)年
開拓使雇教師メジョル・A・G・ワルフィールド(米国)は船で石狩に来て川巾半英里と報告。開拓使雇、化学技師トォマス・アンチセル(野生ホップの発見者)が石狩及び周辺を調査、ケプロンに報告書を提出した。 チャールズ・アップルトン・ロングフェロー(米国、詩人ロングフェローの長男)は函館に上陸し北海道南西部を視察中、石狩にも立ち寄る「ロングフェロー日本滞在記」
○1872(明治5)年
開拓使教師頭取兼顧問ホーレス・ケプロンが札幌で使用する製材の水路調査の為篠路太から石狩に来る「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」 ケプロンは、明治4年に開拓使教師頭取兼顧問となり、ともに開拓使雇となったアンチセル、ワルフィールドを出張させ、その結果にもとづいて、北海道の地質、気候、鉱物、札幌の建府、道路の開通、移民、測量、土地処分法、食物、家屋の改造、農業の改良、農園の設置、機械の使用などに関する意見書を提出。また、翌年には自ら北海道を巡視して黒田開拓次官に種々の報告をし、米国よりさらに教師数名を雇い入れることを提案、その紹介にも当たった。
ケプロンが花畔、生振の開墾地を視察、開墾が進んでいる事を黒田開拓次官に報告。この時、開拓使雇の地質・鉱山学者ベンジャミン・スミス・ライマンが随行(米国、石狩油田の発見者) 開拓使雇教師ジェームス・R・ワスソン(米国、開拓使測量長)が同測量助手ムレイ・S・デーと石狩川河口から幌向川河口までの測量を実施(デーは、のち測量長として北海道実測図を完成させた)
○1874(明治7)年
ルイス・ポマール(米国)が石狩に木草採取に来て、カイデ、小桑多し、と記す。 ベンジャミン・スミス・ライマン(前述)が石狩に一泊、石狩地方に繁栄の兆しあるを示す、と記す。
○1876(明治9)年
ウイリアム・S・クラーク(米国マサチューセッツ農科大学長)が札幌農学校教頭として赴任。同年10月石狩に来て鮭缶詰を製造(この日を記念して日本缶詰協会では10月10日を缶詰の日に指定)この時の事は、クラーク製造7缶、出島松蔵製造18缶(うち8缶は腐敗)と報告されている。
○1877(明治10)年
開拓使により石狩鮭罐詰所が設けられ、U・S・トリート、トレスユット・スウェット(いずれも米国)が技術指導者として招かれた。罐詰の製造は数量、種類数とも多かった(4カ月で鮭缶12,092缶、3カ月で鹿缶9,358缶など)また、石狩に住んだトリートらは、馬鈴薯、肉、ミルク、コーヒー、パンなどの洋食材料を開拓使へ手配させて洋食を食べており、日本人も同席したであろうから、当時の石狩の人は洋食に慣れていたと思われる。
また、札幌農学校雇教師ウイリアム・ホイラー(土木学士)が小樽または石狩から札幌に至る鉄道敷設の測量結果を報告。
○1879(明治12)年
ヨハン・コダルト・ファンゲント(オランダ)が開拓使雇水理工師に任じられ、石狩川口改良水理工師長を補佐して、石狩川口を大改修して大船を出入りさせるための調査、測量などに従事した(翌年病没、札幌に埋葬された)
○1880(明治13)年
函館聖公会司祭ウオルター・デニング(英国)がジョン・パチラーを伴って石狩でアイヌ約200名に説教。
デニングはその後日本伝道のうえで異説をたて解任され、学習院で語学を教授、文部省や海軍省、慶応義塾でも働いた。明治14年に函館で印行された讃神歌は日本で5番目のものである。また、息子のM・E・デニングは1952(昭和27)年に初の駐日大使として着任、任期中に函館にも来て父の写真や資料を見て大変喜んだ。
○1887(明治20)年
北海道庁雇工師チャールズ・スコット・メーク(英国)が石狩川を調査し、河口改修計画を設計した。
○1888(明治21)年
米国総領事グレート・ハウスの一行が石狩に来て旅人宿清水屋に宿泊。
○1890(明治23)年
冒険家A・ヘンリー・サーヴィジ・ランドリー(英国)が146日の北海道一周中、石狩にも立ち寄った「エゾ地一周ひとり旅 思い出のアイヌ・カントリー」その本には、道中に骨折して苦労したこと、来札のカラフトアイヌがエゾ地のアイヌとは眼や眉などの形質に違いがあることなどが記されている。
人類学者、内科医ベルツ博士(ドイツ)が私立札幌病院長関場不二彦(のち北海道医師会を創立)ほか外国人2名と石狩に来て、来札のカラフトアイヌを調査した。
○1903(明治36)年
インターナショナル石油会社・石油ボーリング技師、C・H・マクレデー(米国)サリバン(米国)、フィッチが高岡五の沢坑を試掘。試掘しても噴油せずあきらめて帰ろうとした日の夜に噴油した。
田中さんは、このように多くの外国人が石狩に来たことを、様々なエピソードを交えながら、いつも通り時間いっぱいできっちりと話されましたが、石狩湾は最初にストロゴノフ湾というロシア名が付けられたこと、北海道農業はドイツ式農業から始まったこと、石狩は早くから洋食にも慣れたハイカラな町であったことなど、大変興味深い話題が満載でした。
受講者からも
「いつもながら田中先生のあふれるような知識がほとばしるように話されてとても勉強になりました、期待通りでした、次回が楽しみです」
「大変古い時代から外国人が石狩を訪問し、活躍していたことを知って感激しました」
「石狩と外国人のかかわりが判り興味がわきました、次回を楽しみにしています」
「あっという間に時間が過ぎてしまい、もっと聞いていたいと思いました。配布された資料読むのが楽しみです」
「石狩の歴史を改めて知る機会があり参考になり勉強になりました。大変ありがとうございます」
「石狩史の中の外国人の足跡や行動に関する話は初めてなので良かった」
などのコメントが寄せられ、皆さん大変興味深く聞かれたようです。