講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」
2011/07/10
7月8日(金)講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」の第4回 "浜益・雄冬地区の碑を訪ねて"を行いました。講師は石狩市郷土研究会会長の村山耀一さん、受講者は25名でした。
石狩市公民館に集合して、バスで国道231号線を雄冬へ向けて北上しましたが、村山さんから先ず「ここから雄冬まで何キロあるでしょうか?考えて、雄冬に着いたら答えて下さい」とクイズが出されました。それから、全国で507ある国道や道道についてのお話のあと、資料についての説明を受けました。
雄冬までの車中では、浜益地区に関わる石狩の年表の中のポイント、マシケ,ハママシケ,アツタ各場所の区分の時代変遷、雄冬までにある覆道,トンネルの事、蝦夷地各藩分治図、倉庫が小樽北一硝子三号館として残っている漁業家・木村円吉の事など様々なお話を聞きました。
そして、送毛トンネルの出口から眺める暑寒別連峰の姿が素晴らしいということだったので、期待しましたが、残念ながら曇り空で見ることができませんでした(この眺めも現在工事中の新送毛トンネルが出来ると見られなくなるそうです)
途中、浜益では、摺鉢山(女)やその摺鉢山と夫婦と云われる黄金山(ピンネタイオルシペ・木原にそびえる雄山)が右手に見えますが、この一帯は英雄ポイヤウンペが活躍するユーカラ「虎杖丸の曲」の舞台に似ている事から、ユーカラは浜益で誕生したのではないか、と云われているそうです。
いよいよ雄冬に着いて、さて石狩からの距離は? 答えは、80キロだったのでした。
○雄冬(アイヌ語 ヲフイ・燃える、焼ける)
石狩市と増毛町の境界は雄冬の市街地の中にある。石狩から雄冬岬覆道を越え、とど岩橋を渡ってまもなく道路の左右に直径5㎝ほどの「建設省境界」と刻まれた金属のポイントがありこれが境界線である。雄冬に住む石狩市住民は、4世帯6人。雄冬の集落から見える「トド島」は鰊の好漁場で、その漁場をめぐり浜益と増毛の漁業者による紛争が絶えなかったが、明治30年に「追い鰊入合漁業規定」が設けられてようやく解決した。
「雄冬岬」碑・・1982(昭和56)年、国道が開通した記念に建立された。雄冬岬は、茂津多岬、積丹・神威岬と並ぶ三大秘境で陸の孤島といわれた。開通後1カ月余で崩落し、復旧開通したのは、3年後。
「白銀(しらがね)の滝」・・国道開通記念に命名された。
○千代志別(アイヌ語 チセショシペ・家の所、滝のある川)
9世帯12人。耐雪ハウス山口昭氏の出身地。金山があった。山には桐の木がありゲタ作りも行われた。
○床丹(アイヌ語 トコタン・廃村、マムシの所)
9世帯9人。
千代志、床丹などの集落は、恐らく案内されなければまず入らない所で、その中をバスで巡回した事は、ニシン漁の盛んだった往時のことが偲ばれて大変良かったのでした。
○幌(ポロ、アイヌ語ポロクンベツ・大きいクンベツ川)
「増毛山道入口」・・幕末期、ロシアの南下政策に備えて開削が進められた山道の一つで、安政4年にマシケ,ハママシケ両場所請負人伊達林右衛門により開削された浜益区幌~増毛町大別狩間約28キロを結ぶ山道。
「朋友共学の地」碑・・平成11年建立。裏面に小学校、中学校沿革。
「二宮金次郎立像」・・161㎝(台座を含む)
乾燥鰊を肥料とした幌のリンゴは味が良く札幌はもちろん遠く樺太まで販売された。この地では、お盆に13日から1週間毎日墓参りするしきたりがあった。
○群別(ポンクンベツ・小さいクンベツ川)
「草地改良記念碑」・・肉牛生産基地をめざして昭和39年に草地改良工事が着工されたが、その発展を期して昭和41年に建立。
「石狩市営牧場」・・ニシン漁衰退の漁家対策として雌牛19頭を導入したのが始まり。牧場開設は昭和39年。平成20年放牧頭数は、群別牧場、御料地牧場共に約50頭。
「群別小学校跡地碑」・・昭和63年建立。
「群別稲荷神社」・・1854(安政元)年、ハママシケ運上屋伊達林右衛門により建立された。
○浜益(ヘロカルシ・鰊を捕る所、茂生《モイ・入江》)
「浜益中央小学校創立百二十周年・閉校 記念之碑」・・平成10年建立。
「創立九十年記念碑」・・昭和43年建立
「二宮金次郎立像」・・幌にあるものとよく似ていた。
「トーテンポール」
「あいのモニュメント」・・この地は古くはテキサマ(適沢)と云った。平成19年建立。デザインは藤女子大学の学生が担当、ハートと四つ葉のクローバがモチーフになっていて正面に「愛冠(あいかっぷ)岬」が望める。ハート形のアーチ部分には「ここから、はじまる」という言葉が八カ国語で刻まれている。
また、愛冠岬の岩肌には春になると残雪が馬の走る形に見える「馬雪」が現れ、出稼ぎの漁師たちはそれを見てニシン漁の終わりを知ったと言われている。
「はまます郷土資料館(旧白鳥番屋)」・・明治32年、白鳥浅吉により建立。
安政3(1856)年に浜益に来住した羽後・酒田の白鳥栄作は運上屋より下請負を受け鰊漁業経営を始めた。栄作の後を継いだ甥の浅吉は漁業の拡張をはかり、狭くなった番屋を明治32(1899)年に新築したが、これが現在の建物。その後、合同漁業株式会社の設立により鰊漁業は会社経営で行われるようになった。昭和30年以降の鰊漁業の衰退により、この建物を利用する者もなくなったが、昭和46年、浜益村開拓百年の記念事業の一環として"はまます郷土資料館"として復元された。
「浜益村百年 碑」・・昭和46年建立。
「にしん街道」標柱・・平成20年建立。
北海道日本海沿岸は「ニシンによる繁栄という共通の文化を持ち、松前から稚内まで約700㎞を「ニシン街道」と命名し各地に共通の標識が設置されている。現在、松前町から石狩市浜益区までに15基の標柱が設置されている。
「岡島洞窟遺跡」・・昭和11年、34年の二度にわたり発掘調査され、人骨、土器、石器が多数出土した。特に、第四文化層からは、オホーツク土器が発見され、注目されている。岡島はアイヌ語の「ウカオスマナイ」(互いの上に付いている岩石≪の所の≫川)
その後、浜益(茂生)をバス巡回して、車中より天正寺(真宗大谷派)豊隆寺(曹洞宗)大心寺(浄土宗)を拝観。
「村社八幡神社」・・大正4年建立。
「ハママシケ陣屋跡」
安政6(1859)年幕府はえぞ地を奥州六藩に分け与えてその警備を命じた。庄内藩は、浜益を含む日本海に面する西海岸一帯(留萌、苫前、天塩など)の地域を拝領、警備、開拓の本陣をハママシケ(浜益)においた。この場所には、奉行所を始め寺、神社、長屋などを建て集落が作られた。また、永住計画にもとづき各種職人、農民も集めた。黄金川(浜益川)から陣屋まで水路を引いたが、その費用が千両を要したことから、この水路は「千両堀」と呼ばれた。しかし、その後戊辰戦争の勃発により事態が変わり、庄内藩のこの地での警備、開拓は7年ほどで終了した。この時の藩士の一人、松本十郎は後に開拓判官となった。陣屋跡から下って「千両堀」を車中観察。
「浜益神社 鳥居」・・安政3(1856)年建立。
「開校百周年記念碑」・・平成6年建立。
「二妙薦福之碑」・・明治33年建立。
明治33年、登校中の女子児童7人が暴風雪に飛ばされ、二人が死亡した。この碑は二人の霊を慰めるために作られた。
この後、予定にはなかった送毛山道沿いの千本ナラを見学。千本ナラは、3本のミズナラの木で、平成2年に新日本名木100選に選ばれた。樹齢は推定820年。
○送毛(ヲクリケ・ヲクリキナイという草のあったところ)・・10世帯20人。
車中より尻苗小学校跡などを見学。
送毛では、海岸に出て、磯の香りをたっぷりと嗅ぎました。
送毛から濃昼へ向かう途中、尻苗山「八大龍神」を車中から拝観。
○濃昼(ポキンピリ≪ゴキヒル≫・山蔭、崖の陰)・・15世帯27人。
「木村家番屋(鰊御殿)」
明治33年頃、木村家が建立。洋風デザインの出部屋とその左側に隣接した和風の玄関との組み合わせが印象的。木村家は「濃昼の殿様」と称された。
今日の石碑を巡る旅は、これで終了しましたが、帰りのバスの中でも、浜益の初代戸長・本間豊七や15代村長・澤谷新三郎などについてのお話を聞かせて頂きました。
詳しい資料に基づいた村山さんの丁寧な説明により、ニシン漁が盛んだった当時のこの地区の様子が良く分かり、多くの事を学んだ一日でした。
受講者からも
「いつも通り過ぎている部落等も説明つきで見せてもらい大感激でした」
「石狩に住んでいても、郷土の知らない事ばかりで大変参考になった」
「コースに沿った内容で資料が良く整ったことに感動しました」
「バスの移動時間を利用し詳しく説明があったり、関連する人物や歴史などをわかりやすく説明してもらって良かった」
等など多くのコメントが寄せられました。