講座9『石狩遺跡と縄文文化~石狩市の遺跡と人々の暮らし』
2011/09/12
9月10日(土)講座9『石狩遺跡と縄文文化~石狩市の遺跡と人々の暮らし』の第1回「石狩市内の遺跡と発掘の歴史」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、いしかり砂丘の風資料館・学芸員の石橋孝夫さん、受講者は31人でした。
石狩には237ヶ所の遺跡があって、石橋さんは34年間遺跡の発掘にたずさわってこられたそうです。また、子供の頃から土器や石器に親しむ考古学少年だったとのこと。
お話は、この講座の初回とあって、人類の歩みや考古学とは何か、など基本的なことから始められました。
□人類の歩み
人類がサルから分かれて猿人となったのが1000万年前から700万年前、その後20万年前ころに現生人類(ホモサピエンス・新人)がアフリカで生まれた。さらに人類は10数万年前にアフリカを出てヨーロッパや東に向かい、シベリアを通って新大陸、南米に達した。
日本人の先祖縄文人は、本州縄文人と北の縄文人の2系統があり、北の縄文人は続縄文、擦文からアイヌへと変化していった。
□考古学とは
歴史学の一分野で、資料が無い時代あるいは資料が得られないとき、人間の生み出した人工物を基にその歩みや文化などを読み解き研究する学問。
□考古学の用語の解説
・遺跡:人間の活動の跡が残っている場所。
・遺物:土器や石器など当時の人々が使っていた道具類や食べて捨てた貝殻、骨など人々が残した物。
・発掘調査:遺跡を掘って調べること。
・遺構:当時の人々が作った家の跡や穴、お墓のこと。
□考古学の時代区分
旧石器時代、縄文時代の後は、弥生時代、古墳時代と続く本州と違って、北海道では、縄文時代から続縄文時代、擦文時代、アイヌ時代となる。
□遺跡の年代判定
・噴出年代の調査が進んでいる火山灰により判定。
・時代や地域である程度形がまとまっている土器や石器により判定。
・放射性炭素を使用した放射性炭素年代測定。
□国宝 中空土偶
旧南茅部町(現函館市)で昭和50年に出土。南茅部で調査に携わっていた石橋さんは、昭和49年に石狩市に勤めることになり、中空土偶の発見とはすれ違いだったそうです。
□石狩市内の遺跡
石狩市には、旧石狩市内124ヶ所、厚田区46ヶ所、浜益区67ヶ所の合計237ヶ所の遺跡がある。縄文時代と続縄文時代の物が70%で、旧石器時代の遺跡は未確認。6000年前の石狩は海だった(縄文海進)ので、6000年より古い遺跡はほとんどないが、例外的に厚田区古潭の海の中に7000年前頃の古潭浜遺跡がある。ちなみに、道内には12000ヶ所の遺跡がある。
□縄文海進以降の石狩
縄文海進がピークの頃、石狩湾に砂嘴(さし)が発達し、これが砂丘(紅葉山砂丘)となった。この砂丘に縄文時代前期の末か中期の始め頃から人が住み始めた。この地は、続縄文、擦文、アイヌと継続的に人々が生活する場となった。
1.志美(しび)遺跡 石狩市新港東1丁目
第一から第四まで四つの遺跡があるが第二遺跡は遺存状態が良くなかった。
・第四遺跡(縄文晩期中ごろから後半)―41基の墓
長円形の墓穴を掘り、ベンガラを散布して屈葬で埋葬。幼児の場合は土器棺を使うことがある。一つの墓穴に複数の遺体を埋葬することがある。副葬品は、土器、石器、漆器、勾玉(新潟県糸魚川産のヒスイと思われる)ネックレス、サメの歯(頭飾りの装飾?)、土偶など。
・志美第三遺跡、第一遺跡
住居跡を始めとする大型の遺構。第一遺跡の竪穴は花畔砂堤列(標高5~6m、巾20~30mで海底地形の一種、両側は1~2m低い低地となっている)の上に直線的に並んでいる。道南系の土器と石狩低地帯の土器が混在して出土。
出土する石器は、メノウ、頁岩(けつがん)黒曜石を材料としている。黒曜石は赤井川村や遠軽町白滝など産地が限定されるので、原産地から近くの村またその次の村というように配達ネットワークのようなシステムがあって運ばれたと考えられる。
・第三遺跡の竪穴は深さが第一遺跡に比べて深さが倍の1m近くあり、大量のベンガラを竪穴内に土器や石器と共に散布してある。これらのことから、形は住居のようでも何らかの儀式が行われたと推定される。
2.紅葉山33号遺跡 石狩市花川南6条5丁目花川南公園
1967年、1968年の二回の調査で9基の続縄文時代の墓。その後の三次調査で35基の墓が発見され、北海道を代表する続縄文時代の遺跡。本州産の石を使用した管玉(くがたま)が出土。その内、赤い石は佐渡産の赤玉石(鉄英石)と考えられ、佐渡で作られた玉が北海道まで運ばれたことを示している。
例のない文様が描かれた弓が1点出土。この文様はアイヌの文様に似ているが、この後のアイヌとつながる遺跡は見つかっていない。
3.八幡町遺跡ワッカオイ 石狩市八幡 続縄文時代の墓地と擦文時代半ば10世紀ごろの村
続縄文時代末4世紀ごろの墓地の人の歯の鑑定により、20歳から30歳代の死亡率が高く平均死亡年齢は30歳代、40歳代死亡率は70%、50歳代の人もわずかに含まれる、等の事が分かった。
墓の発掘は、地層の境が確認しにくい砂丘にあるため大変困難であった。多数の合葬が見られた。合葬されている理由は、流行性の疾病、冬期間に埋葬できなかった死者を春になって一時に埋めた、などの理由が考えられるがまだ原因は分かっていない。
擦文時代の住居跡は6基見つかった。鉄器が普及していた。四角形が基本で内部に炉とかまどがあり、ヒエ、キビ、アワが食べられていた。サケが重要な食糧源だったが、狩猟漁労畑作が程良いバランスで行われていた。第3号住居の床面の上に細長い安山岩の石が二列に並んで出土し、ゴザを編むための錘であることが確認された。
人類の歩みから始まり、市内の遺跡3ヶ所(志美遺跡、紅葉山33号遺跡、八幡町遺跡ワッカオイ)が詳しく紹介されて今日の講座は終了しました。また、最後の質問の中で、縄文人とアイヌとの関係について、DNAで調べると、縄文人からアイヌへと変化する中にオホーツク人のDNAが混じっていることが紹介されました。
90分の時間の中で、多くの事が紹介され、また丁寧で詳しい資料が添えられていて、受講者には大変参考になった講座でした。