講座1 『藤村久和さんと学ぶ~北海道開拓とアイヌの人々』
2011/10/21
10月20日(木)講座11『藤村久和さんと学ぶ~北海道開拓とアイヌの人々』の第1回「北海道開拓の経緯」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、昨年もアイヌについてのお話をして頂いた藤村久和さん、受講者は35名でした。
藤村さんは、先ず今回の講座の趣旨について、「本に書かれた歴史は、京都など中心地の政治的事項を羅列したもので、人々のそれぞれの生き様は示されていないのです、北海道の開拓についても、集団移住の事は分かるが、例えば屯田兵の個々の生活のことは分からないのです。私は、そのような歴史の記録に出てこない部分について、ポイントをしぼってお話するつもりです」と述べられました。
4代慶広(よしひろ)の時に中央政権から蝦夷地の島主として認められた松前氏の松前藩は、江戸時代3代将軍家光の頃完成した幕藩体制に組み込まれたが、米の生産のない松前藩は他の藩とは事情が少し異なった。米の生産が無いため無石とされたが、格としては1万石の扱いであった。しかし、海産物の生産(昆布、乾鮭、貝、棒鯨、海鼠、鰊かす、鰊油、サメヒレなど)や毛皮類、アイヌを通しての大陸由来の品(衣装、ビロード、ガラス、銀細工など)の商いなどで実生産高は10万石ほどあった。
松前藩の領地は、道南の一部で、西は熊石まで、東は八雲までであり、領地以外の蝦夷地は管理する所であった。
このような実情に対して、幕府の蝦夷地に対する考え方は、蝦夷地は蝦夷次第という態度であったので、幕府に内情を知られないように、松前藩の詳しい事情は記録に残されなかった。
江戸時代は、米の生産が藩の財政を支えていたが、家を継げるのは長男だけで、次男、三男が独立して生計を維持する方法は婿養子になる以外なかった。その次男、三男(余剰人口)を救う手段が新田開発で、盛んに行われ、爆発的に人口が増えた(3,000万人→5,000万人)それでも、基本的には、絶えず食糧難がつきまとった。お金さえあれば、米が買えるようになったのは、昭和になってからである。
本題に戻って、江戸時代の鎖国体制が維持出来たのは、アジア全体から見ると、中心勢力の中国が対外的に積極策を取らなかったことにも由来する。
その様なアジアの情勢が、欧米諸国の進出により変化していった。
マルコポーロの東方見聞録によりアジアに目を向け始めたヨーロッパ諸国は、大航海時代になり新しい地域からの富の収奪により栄えたが、産業革命が起こると、新しい動力源として、石炭、石油を求め、石油は採取が難しい為、代わりに鯨油が求められた。
独立した新興国アメリカは、鯨油を手にする場所が、先進国がまだ進出していない太平洋しかなかった。太平洋への進出は、ハワイを拠点として行われたが、ハワイだけでは、大変効率が悪く、その解決策として、日本に通商を迫った。(ペリー来航)
幕府の基本政策は、天然の理(自然の理)という情勢まかせのものだったが、これが北海道開拓の流れともなった。
米、英との交渉で、幕府は、下田、箱館を開港した。
一方、ロシアは、基本的に海外へ出る方法が難しかった(出口が無かった)ので、コサック兵を組織し人頭税(毛皮)を徴収する方法で、東(シベリア)へ進出した。
ピョートル大帝(雷帝、1725年没)はベーリングを隊長とする探検隊を派遣し、北太平洋を調査した。
その後、樺太や千島に進出して、日本との領土問題が発生したが、アメリカのように国と国の直接交渉ではなく、ロシアの場合は、カムチャッカやシベリアを通しての交渉であった。
当時の松前藩では、郷帖、御国絵図などに千島なども記載されているが、あくまで周辺地としての記載で、領土という意識は薄かった。
1855年の日魯和親条約で、日本とロシアの国境はエトロフ島とウルップ島の間とされたが、その後、1875(明治8)年の千島・樺太交換条約により樺太の権益を放棄する代わりにウルップ以北の千島列島が日本領となった。
箱館開港後でも、北海道内陸部についてはほとんど知られていなかったが、松浦武四郎が千島、樺太、内陸部を巡回調査して基礎資料を作った。
ここまでお話が進んだところで時間切れとなり、明治以降の開拓の事は次回に持ち越しとなりましたが、松前藩の経営方法や松前藩の領土意識、欧米諸国が日本へ進出した事情など、大変興味深い話題が多くて、面白い講義でした、次回が楽しみです。