講座11 『藤村久和さんと学ぶ~北海道開拓とアイヌの人々』
2011/11/11
11月10日(木)講座11『藤村久和さんと学ぶ~北海道開拓とアイヌの人々』の第2回「北海道開拓とアイヌの人々」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海学園大学名誉教授の藤村久和さん、受講者は38名でした。
藤村さんは先ず、前回受講者から寄せられた「石狩地区のアイヌの戸数はどのくらいだったか」という質問に対して、この地の人口は、二度にわたり幕府の直轄地となった時調査されて4,000人とはなってはいるが、季節的に移動していた当時の人達がどれだけ正確に把握されているのか疑問なのです、と答えられました。
本論に入り、今回のお話は明治以降の開拓の歴史についてです。
松前藩時代にも御国絵図などの地図があり千島周辺は認識されていたが、松前以外は領土ではなく管理地としての意識であった。また、和船では遠くまで行けなかった為エトロフくらいまでしか調査できず、ロシアとの国境はエトロフ島とウルップ島の境となった。しかし、アイヌはカヤック型の舟で北千島まで出かけて毛皮漁を行っていた。
樺太については、ロシアは流刑地としての定住政策を取っていたが、江戸幕府は正確な地図情報をもっていなかったこともあり、国境は定められず日露雑居であった。
明治当初開拓使は、北海道(松前を除く人口4,000人)を管轄する開拓使と樺太(人口2,000人)管轄の開拓使の二つがあった。
開拓次官(のち長官)の黒田清隆は、新政府に反抗した榎本武揚(ロシア通だった)を助けて、榎本からロシア情報を得た。黒田は、日本の国力では、樺太を維持する力がないことを知り、樺太を諦めて北海道を専守する方針をとった(明治8年千島・樺太交換条約)
北海道は、ロシアの侵略から本州を守る防波堤の位置づけであったが、北海道の領土権を国際的に主張するためには、国際認識である「人が定住しているという事実」が必要だった。
その為、開拓使の重要な仕事は人を定住、営農させることであった。
開拓使は、人を移住させる為、7色で印刷した豪華な移住案内を作り全国に配布した。
しかし、移住者はあまりなく、青森、宮城の下級武士を強制的に募集して移住させた。(石狩では、望来、高岡など)
それでも、移住者は増えず、さらなる策として、当時の不満分子(主に下級武士)を対象として屯田兵制度を採った。
これは、開拓使を守るために国が雇用する形であった。
この屯田兵と同じような制度は、律令時代の宮城・多賀城跡でも見られる。
屯田兵の役割は開拓使の警護なので、始めは札幌近辺に置かれ、後に北海道の周辺地へ広げられた。
北海道の中心位置にない札幌に開拓使が置かれたのは、小樽、苫小牧、室蘭と多方面へ通じている(逃げ道がある)ためだった。
定住、営農政策は、アイヌにも適用された。
明治37年、屯田兵制度は廃止された(明治38年、日露戦争終結)
定住地は、5町が基準であったが、せっかく拓いた土地も水はけの悪い所が多く、治水事業が開拓使の大きな課題となった。
黒田は、1年間で150万両という資金(国税の半分)を北海道開拓につぎ込んだ(国が大変大きな投資をした)
移住しても、農地を拓くのは難しく、排水問題もあり、漁場の手伝いなどをして生計を維持する者も多く、放置地が発生した。
明治38年以降は、放置地を勝手に開拓するなどの土地問題が発生した。
ここまでで、時間となりましたが、北海道の開拓は、ロシアの脅威から本州を守るために行われたという事が良く分かるお話でした。
最後に、藤村さん・文、手島圭一郎さん・画の絵本が紹介されて今日の講座は終了しました。