講座12 『知られざる北の国境』
2011/11/08
11月7日(月)講座12『知られざる北の国境』の第1回「樺太と北千島」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道スラブ研究センター研究員の井澗裕(いたにひろし)さん、参加者は44名でした。
本日のお話は、1945年8月に起こった「占守島の戦い」についてです。
占守島(しゅむしゅとう)は北千島の中で一番カムチャッカ半島に近い島で、日本とロシアの国境は、1875(明治8)年から1945(昭和20)年までこの島とカムチャッカ半島との境にありました。
「占守島の戦い」とは、1945年8月18日、占守島を攻撃したソ連軍と日本軍守備隊とが衝突し、ソ連側514名、日本側234名の死者を出した戦いです。
「この戦いについて、日本側とソ連側両方の資料を突き合わせしながらお話していきます」と井澗さん。
・日本側資料「戦史叢書44 北方面陸軍作戦<2> 千島・樺太・北海道の防衛」(以下は戦史叢書と云う)など
特徴―参加将兵がシベリアに抑留された為に戦闘詳報がない。師団長(堤不夾貴)の回想録
・ロシア側資料「カムチャッカ防衛区軍による1945年8月15ー31日のクリル諸島北部における戦闘行動日誌」など
○この地の歴史的背景
1875(明治8)年の樺太千島交換条約により日本領に。1893(明治26)年頃より開拓事業が行われ日露戦争後は北洋漁業の拠点となった。その後アメリカとの関係が緊張するにつれ、アメリカへの最短ルート(日米開戦の折にも連合艦隊は択捉島から出港してハワイへ)であるこの地が重要視され、軍事的要塞が建設された。1943年のアッツ島玉砕の後は、北千島が最前線となり最大45,000名の兵力が置かれたが、最終的に第91師団を基幹兵力とする23,000名となった(うち占守島には9,000名)対して、この地域のロシア兵力はカムチャッカ防衛区所属部隊の10,000名ほどであった。
①ソ連軍の作戦行動は、日本降伏という機会に乗じるために、カムチャッカ防衛軍の現有兵力をもって機会主義的に立案、実施されたもので、その作戦目的はもともと北千島三島のみを対象としていたが、当初から強襲上陸を前提に作戦計画を進め、無血占領などの可能性は考慮されていなかった。
②北千島の日本軍守備隊は、ソ連軍の強襲上陸を察知し、当初の無抵抗の方針を急遽変更して水際での迎撃を決意した。だが、『戦史叢書』では交戦に積極的だった幕僚たちの証言によりその事実が隠蔽された。
③当初劣勢であったソ連軍の攻撃が功を奏したのは、日本軍が停戦刻限としていた「18日16時」であり、これが戦術的帰趨を左右する要因となった。日本の前線では、停戦刻限を連合国との合意事項と誤解し、ますます相手側への不信感を強めたが、これは実は大本営が命令伝達時刻を勘案して定めたものにすぎなかった。
④19日に行われた最初の停戦交渉で、日本側は一旦は同意したあとで、師団長が拒否したとされているが、それは上級司令部の第5方面軍(札幌)の指示だった。
⑤第5方面軍による自衛戦闘継続(降伏の拒否)は、樺太、千島におけるソ連軍の作戦行動を「現地部隊の独断」と誤解していたためであり、この誤解が関東軍とワシリエフスキー元師との停戦交渉にも影響を与えた。最終的に占守島の日本軍の武器引き渡しが完了したのは24日夕であった。
⑥ソ連側戦史では、日本の停戦拒否を背信行為とみなし、翌20日に総攻撃を行い、日本軍を屈服させたことになっているが、日本軍将兵の証言からも20日にソ連軍の総攻撃があった事実は認められない。
最後に井澗さんは、大本営は、第5方面軍と関東軍にソ連との「局地停戦交渉」「武器引渡」をまかせて、ソ連軍との交渉には直接タッチしていないことや日本側戦史の記述を複雑にせざるを得なかったのは、第5方面軍司令官・樋口季一郎が戦後ソ連から戦犯指名を受けていたからではないか、とも話されました。
8月18日の占守島の戦いについての、両者それぞれの資料を比較しながら丁寧に説明された井澗さんのお話を聴いて、当時の状況を良く理解することが出来ました。