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講座13『石狩川Ⅰ~北の大地の母なる大河』

第3回「石狩川の洪水史~洪水が石狩の歴史を変えた」

2011/12/17

 12月15日(木)講座13『石狩川Ⅰ~北の大地の母なる大河』の第3回「石狩川の洪水史~洪水が石狩の歴史を変えた」を石狩市民図書館で行いました。講師は、いしかり砂丘の風資料館・学芸員の工藤義衛さん、受講者は47人でした。

13-3-2.JPG 工藤さんは最初に、来年の講座・石狩川Ⅱの時に明治後半期の洪水については話が出ると思いますので、私は江戸から明治前半までの時代の洪水についてお話します、と言われ、今日のお話の三つのポイントを示されました。

13-3-3.JPG 1. 近世の洪水と石狩
①現在の豊平川は、かってサッポロ川と呼ばれていて、19世紀初めころまでは、現在の茨戸付近で石狩川と合流していたが、19世紀初頭の大規模な洪水により、流路が移動して江別付近で石狩川に流れ込むようになった。古い流路は、「フシコサッポロ川(アイヌ語で"古いサッポロ川")」と呼ばれ、現在の伏籠川となっている。
②「ちょまこうた」の盛衰
 江戸時代初めに石狩川下流部、現在のあいの里付近に「ちょまこうた」と呼ばれる場所があり、和人とアイヌの人々との交易地であったと云われているが、江戸時代中期以降の記録には見られなくなる。その原因のひとつは、石狩川の洪水で流路が変わったからではないかと考えられる。
「ちょまこうた」で交易が行われなくなるとともに、和人とアイヌの交易地は、石狩川河口に移動したと推測される。イシカリ十三場所の運上屋が立ち並ぶ河口部の風景は、洪水による「ちょまこうた」の消減によって生まれたのかもしれない。
③幕末の洪水と村山家による治水
 石狩では、弘化2(1845)年と弘化4(1847)年に水害で大きな被害が出た。特に弘化4年の洪水では、運上屋が流失し、下流に立て直したと記録(松浦武四郎)されている。この時、石狩場所請負人の村山伝次郎は、越後から10名の技術者を雇い入れ、治水工事を行ったと云われていて、これが、石狩川の治水の始まりである。この時の治水工事は、志美付近に屈曲部の流れを良くするため水路を掘ったほか、堤防や排水溝を掘削したと云われる。こうした治水工事の施工時の記録は残っていないが、明治初期に作成された「石狩郡ノ図」には、河口から茨戸付近まで、高さおよそ2~4尺の堤防や多くの排水溝が記録されていて、これらの堤防や排水溝は、江戸時代の村山家の治水工事によるものだと考えられる。
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 2. 明治初期の洪水と治水
①明治4年の洪水
 明治4年に発生した洪水で河口部の多くの倉庫が流失したことにより、治水工事が検討された。この時開拓使石狩出張所から本庁に提出された計画案は、1)第一屈曲部から下流側の左岸に水勢を弱める施設を設置する 2)右岸側に屈曲部をショートカットする水路を設けるというものだった。
②開拓使事業報告に見る石狩の治水工事
 この頃開拓使が河口付近に設置した施設は、1)柵(しがらみ・護岸施設)2)枠、杭出し(いずれも水勢を弱める施設)だったが、これらは江戸時代以来の伝統的な工法によるもので、石狩川ほどの大河で、なおかつ地盤の弱い河口部では効果は限定的であった。
またこの時代は、治水予算の8割は札幌地区の治水(主に豊平川)の為に使用され、石狩に於ける治水予算は少なかった。

13-3-31.JPG 3. 石狩湾計画と明治12年の洪水
①幌内炭田の発見と鉄道計画
 明治元年に発見された幌内炭田は、明治6年にライマン、榎本武揚が炭層を確認し、炭鉱の開発計画が検討されたが、石炭の搬出ルートが問題であった。開拓使内では、積み出し港を室蘭にする案と小樽案、さらに小樽案については、小樽港までの輸送に、鉄道輸送案と石狩経由での船輸送案があった。
②石狩港計画のゆくえ
 明治石炭の搬出ルートは、明治11年に石狩経由で小樽へ運ぶルートに決定され、これに合わせて石狩河口の改良が進められることになったが、石狩川の氷結と河口の移動という問題があった。そのため、明治12年に石狩川改良工師長となったオランダ人技師ファン・ゲントは、石狩川の河口をふさぎ、新たな河口を設けることでこの問題を解決しようとした。
 一方、ファン・ゲントと同時期に来日した鉄道技師クロフォードは、1)積み替えのロス2)石狩川の氷結3)積み出し拠点・幌向太の立地の悪さを挙げ、江別から札幌経由で小樽まで鉄道を敷設すべきだと主張した。
 石炭輸送プラン作成作業が進められていた明治12年、4月と9月に洪水が発生して親船町の人家が流されるなどの被害が発生した。石炭輸送プランは結局、クロフォード案が採用されたが、その背景の一因には、石狩川の治水の難しさがあったと考えられる。

 そして本日のまとめは

13-3-43.JPG 工藤さんのお話を聞いて、石狩川が毎年のように洪水を繰り返して、近代的な治水工事が効果を上げ始める時代まで、流域の人々の生活に大きな影響を与え続けたことが良く分かりました。

 受講生からは

「石狩川の洪水の対策及び自然との闘いの歴史が、江戸時代、明治初期より始まっていたことは興味深かった」

「治水工事は現在のような大型機は皆無なので人、馬で行ったと思う。大河を相手に土工、枠工等を行っても壊されるし効果もほとんどなかったと思う。水中工事で工事に伴う死者も頻発したと思うが労働災害の記録についても知りたかった」

「大河石狩川の恵みと災害、自然と闘う人々の生活について学びました」

などのコメントが寄せられました。


 

 
  




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