講座15 『石狩川Ⅱ~北の大地の母なる大河』
2012/01/17
1月12日(木)講座15『石狩川Ⅱ~北の大地の母なる大河』の第1回である「石狩川の治水~岡﨑文吉の挑戦」を石狩市民図書館で行いました。講師は、石狩ファイル編集員でいしかり市民カレッジ運営委員の石井滋朗さん、受講者は53名でした。
先に行われた講座13『石狩川Ⅰ』の第3回「石狩川の洪水史~洪水が石狩の歴史を変えた」では明治初期までの治水について述べられましたので、今回はその後の治水対策として岡﨑文吉に焦点を当ててお話ししたいという言葉で講座は始まりました。
まず、岡﨑の自筆経歴書を紹介されました。本人は「もっぱら、北海道庁一般土木事業に従事」とし、従事した仕事として1.治水(石狩川治水の調査研究、治水計画の立案と執行)、2.港湾(函館新港計画の立案、修築工事の監理)、3.運河排水(札幌・茨戸間運河、茨戸・銭函間運河の立案と工事監理)、4.橋梁(石狩川鉄橋)、5.中国(上游遼河改修工事など)を上げているが、その他にも馬追・江別間運河の開削や北海道初の人道鉄橋(豊平橋)の架橋、北海道初の水力発電計画の立案(豊平水系)など、公共土木の第一線で大きく活躍した。
次に岡﨑文吉の生い立ちについて話されました。岡﨑は1872年(明治5年)岡山で生まれ、10歳頃には岡山藩士族であった父が札幌郡月寒村に単身赴任したという記録もある(文吉長男の岡崎一夫「五代の記」)。非常に優秀な子どもであったようで、1886年(明治19年)15歳の時には初等中学科第2級から飛び級で5年制尋常中学校4年生に特別進級している。中学生時代には小学校の代用教員も勤めた。
将来の進路について迷っていた時に札幌農学校工学科の学生募集の広告を見つけ、1887年(明治20年)7月に入学願書を提出した。入学年齢は17歳以上とされていたが、岡﨑は当時16歳であったため願書には明治2年生まれと偽って記載したという。4名受験し9月に岡﨑と平野の2名が仮入学、11月には予科から進級した3名を含めて合計5名が工学科に合格した。この5名が札幌農学校工学科の1期生となった。
入学後の専門科目名や担当教員名および成績なども残されているが、岡﨑の成績は大変良かったようである。入学者5名のうち二学年に進級できたのは岡﨑と平野の2名のみ、1891年(明治24年)7月に札幌農学校第九期生として卒業できたのもこの2名であった。
卒業後は研究生の後に1892年(明治25年)に雇、1893年(明治26年)5月には22歳の若さで札幌農学校助教授となり、同時に北海道庁技手を兼任した。大学の情勢変化により翌年には北海道庁技手が主となり、研究者から北海道庁技師としての道を歩むこととなった。24歳で岩手県士族・逓信官僚の高木源治の長女である高木ハツと結婚、3男4女の子供に恵まれた。
次いで、岡﨑が成し遂げた先駆的な仕事について話されました。
◇ 「札幌・茨戸間運河」と「花畦・銭函間運河平面図」の設計(明治28年、24歳)
「札幌・茨戸間運河」は、1866年(慶応2年)に大友亀太郎によって作られた大友堀(南3条~フシコサッポロ川)と寺尾堀(北6条~琴似川)、吉田堀(南3条~南7条)を整備し、寺尾堀の一部から茨戸までを開削して作った。
◇ 琵琶湖疎水検分(明治29年)
明治23年に大型トンネル掘削によって完成した琵琶湖疎水を検分し、そこで多くのことを学んだ。水力電気工事の検分は後に札幌近郊の水力電気場建設構想に生かされた。また、設計はあくまでも設計、良いアイデアや先端技術導入が可能であれば設計変更もすべきであることも学んだようである。
◇ 鋼鉄製豊平橋の設計(明治30年、26歳)
明治4年につくられた橋は木製で何度も流されたため、岡﨑は北海道初の人道鉄橋を設計した。
◇ 大洪水(明治31年)
死者248人、流失潰倒家屋3,551戸、浸水24,163戸、田畑被害56,088ha
石狩川流域は全道被害のうち、死者46%、家屋流失57%、潰倒72%、田畑被害73%であった。この大洪水は岡﨑に治水対策の重要性を再認識させる結果となった。
◇ 北海道治水調査会の設置(明治31年10月~明治36年)
明治32年5月岡﨑 の指揮で「石狩川治水予備調査」が開始した。それまで、北海道の川は国の対象になっていなかったが、この予備調査で初めて国の政策対象となり調査費用も国費で支出された。基礎調査の重要性も指摘し、河川調査の他、雨量、水位、流量調査、沈殿物調査(河水中の土砂含有量)なども行った。
◇ 海外視察(明治35年1月~12月)
内務大臣からの命令で出張。
視察先―アメリカ(ミシシッピ川:自然の流路を保存)、ドイツ(ライン川;迂曲した川を直線化した結果洪水は阻止されたが、流速が増し舟運に支障が生じた)、フランス(ローヌ川;直線化でうまくいかず、川の流れをそのまま生かす工法で改修した[岡﨑のいう自然主義工法])
◇ 計画洪水量の算出
明治37年の洪水観測により、将来石狩川で河川改修工事が行われ氾濫が抑制された場合の石狩川下流対雁(ついしかり)地点(現在の石狩大橋地点)での洪水量を毎秒8,350m3と算出した。この数値は大変正確で、昭和40年までの石狩川治水の基礎データとして常に用いられた。ちなみに、利根川では明治44年、昭和14年、昭和24年、昭和55年と何度も流量改定が行われた。
◇ 石狩川治水計画調査報文の提出(明治42年、38歳)
報文の治水計画は明治43年から始まった「北海道第一期拓殖計画」の根幹事業として取り上げられた。
◇ 岡﨑式コンクリート単床ブロック(ヨーカンブロック)の開発(明治42年)
川の凹部の護岸は堅牢性と屈撓性を兼ね備える必要があり、その工事は非常に難しいとされていた。岡﨑は、明治42年から大正3年にかけてアメリカの学会誌「エンジニアリングニュース」に岡﨑式コンクリート単床ブロックに関する3編の論文を報告した。そのブロックの特徴として、①安価、②優れた強度と耐久性、③変形した河床への適応性、④急な勾配地での安定性、⑤抵抗が少なく断面を阻害しない、⑥組み立てが簡単で施工が容易、などが上げられていた。
岡﨑式単床ブロックは明治43年から大正5年までに約126万個製造され、約5,800mに施工された。生振捷水路改修工事や利根川水系、信濃川水系などにも利用された。特筆すべきは、アメリカ・ミシシッピ川で現在も大量に使用されていることである。
◇ 工学博士の学位取得(大正3年、43歳)
学位請求主論文"Treatment of Untouched River"("原始河川の処理")が東京帝国大学教授会の審査に合格
◇ 「治水」の出版(丸善)(大正4年、44歳)
土木学会の「近代土木文化遺産としての名著100選」にも収録されている。
この本で岡﨑は「治水にあたって、原始的河川を過度に矯正・改造しても河川の平衡状態を破壊し、かえって弊害となる。なるべく天然の現状を維持し、自然を模範とし、自然の機能を尊重すべきである。治水事業を行うにあたっては、山林、地質、水理、気象にまたがる科学的知識に加えて、山林、河川保護取り締まり等行政にも配慮すべきである」と述べ、自然主義を主張した。環境問題が問われる現在、岡﨑の自然主義は時代の先を行く先駆的なものであった。
◇ 「石狩川治水事業施工報文」の発表(大正6年、46歳)
◇ 水力電気事業調査のため米国出張(大正7年)
◇ 中国・上游遼河改修工事(大正9年、49歳)
中国、日本、イギリスの合同工事の責任者として13年間にわたり改修工事に従事した。非常に苦労したようである。遼河は長さ1,390km(石狩川の約5倍)、流域面積235,000km2(石狩川の約16倍)で、内陸貿易の重要な舟運河川であった。しかし、土砂堆積により舟運の阻害が多くあったため、新水路掘削、河道浚渫、可動堰などの設置工事を行った。
昭和9年、肺結核のため中国から帰国し、昭和10年に茅ヶ崎に落ち着いた。昭和10年死去した(享年74歳)。
講師の石井さんから、母なる大河である石狩川の治水において岡﨑文吉が成し遂げた独創的な対策の数々と岡﨑の人となりについて、とても判りやすい説明をしていただきました。石狩の歴史を知る上でも貴重な講座でした。
受講者からも
「岡﨑文吉について大変よく調べられ、話しもわかりやすく、勉強になりました。釧路川の直線化をもとにもどす工事も岡﨑の考え方が生かされているのかと思いました。ありがとうございました」
「すばらしいお話しでした」
「初めて聞く話しばかりで大変勉強になりました。次回も楽しみにしています」
「わかりやすい講座でした。人物が大変わかりやすいです。ブロックが今外国で使用されている事がすごいです」
などのコメントが寄せられました。