いしかり市民カレッジ

トピックス

トップページ トピックス 講座1 田中實さんが語る石狩歴史秘話~『石狩市(町)で計画され実現されなかった構想』


トピックス

講座1 田中實さんが語る石狩歴史秘話~『石狩市(町)で計画され実現されなかった構想』

第1回「石狩川河口地区鉄道計画史」

2012/04/27

 4月25日(水)今年度最初の講座である、講座1 田中實さんが語る石狩歴史秘話~『石狩市(町)で計画され実現されなかった構想』の第1回「石狩川河口地区鉄道計画史」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は54名でした。

 田中さんは、最初に、これまで石狩で計画され、実現しなかった様々な計画を紹介されました。
石狩浜に海浜ホテル(実現したが米軍空襲で焼失)、石狩海岸に米軍演習場(このテーマは平成23年6月29日に講座実施)、原子力発電所設置(札幌に近すぎるので中止)、石狩川遊覧船計画、生振に温泉ホテル建設(地主が反対)、新港地区にダイエー建設、緑苑台に航空専門学校を設置、淡水水族館建設、そして今日のお話の鉄道計画等など多々あったようです。
ko1-1-1.JPG

 さて、その鉄道計画についてのお話です。

明治6年、開拓使顧問ケプロンは、幌内炭山の石炭を輸出する為の策として、炭鉱より石狩川まで鉄道を敷設、石狩川から石狩湾を横断して小樽に運ぶ方策を黒田開拓次官に提案した。
明治10年、札幌農学校雇教師ウヰリヤム・ホイラーは、「小樽または石狩より札幌までの鉄道敷設」のための雪中測量を行った。
当時石狩川は、札幌や石狩川流域への物資輸送、人の通行などの大動脈であり、鉄道と結ぶことで利用度を一層高めることが開拓促進上重要視されていた。
しかし、石狩川河口改良計画は実現されず、冬期間の結氷による運航不能などの不利もあって、石狩に先駆けて明治15年に手宮―札幌―幌内太間の鉄道が敷設された。
明治38年、東京商工会議所の会議で、「資本金2,200万円の新会社を起こし、石狩河口などに新港を築造し鉄道を敷設する」ことが計画されたが失敗した。
明治39年、浅野総一郎を社長とする「石狩石炭株式会社」が創立され、出願した三路線の運炭専用鉄道が許可された。
これを受けて、山崎亀蔵石狩町花川村組合長を会長とする「石狩協議会」と畠山清太郎・会長の「石狩築港鉄道速成同盟会」が発足し、市街地および築港計画地周辺の土地売買が盛んになり地価が暴騰した。
この計画は、主産業の鮭漁獲量が衰退、農業も不安定であった石狩町にとって起死回生の大事業であった。
しかし、会社の経営方針変更により事業は頓挫した。
明治42年、道庁技師・岡﨑文吉が「石狩川治水計画調査報文」の中で河口付近の新港湾築造の利を説き予算も見積もったことから、町内に「石狩治水鉄道速成同盟会」が設立された。
明治44年、馬車鉄道「札北馬車鉄道株式会社」が札幌区北7条1丁目から茨戸まで10㎞間で開業し、その後「札幌軌道株式会社」と改称して昭和10年まで営業した。
明治44年、「石狩川右岸八ヶ町村聯合鉄道速成同盟会」が設立された。
明治45年、沼田―当別―石狩―銭函間の石狩川北岸鉄道敷設が衆議院に請願された。
その後、同盟会会長に就任した新十津川村出身の衆議院議員東武の尽力により大正14年、8ヶ年の継続事業として実施決定したが、当別―石狩―銭函間の鉄道は実現しなかった。
大正11年、既存の「石狩沿岸鉄道速成三郡同盟会」を解散して「西沿岸線鉄道速成同盟会(会長・坂牛祐直石狩町長)」が組織され、鉄道敷設を議会に請願した。
同年4月、「石狩国札幌ヨリ石狩ヲ経テ天塩国増毛ニ至ル鉄道」が予定鉄道路線に決定した。ただし、銭函を分岐点とし石狩、厚田、浜益経由で増毛へ通ずる「速成同盟会」の路線と、政府の札幌―増毛の路線には違いがあったが、同盟会が政府案に歩み寄る形で収拾された。
昭和9年、札沼線の札幌―当別間が開通した。札幌増毛間西海岸鉄道敷設促進運動は第二次世界大戦後も続けられた。
昭和14年、北海道庁土木部が「石狩港修築並に工業地帯造成計画書」を策定、15年から17年までの3年間、国の調査費で実地調査を行ったが戦争のため中止となった。
第二次世界大戦終結後も、鉄道敷設促進運動は、町の最重要懸案事項として取り上げられた。
石狩港が昭和28年に地方港湾に指定され工事が着手されることを契機に、昭和30年、「石狩町工業設置観光施設誘致条例」が制定された。
昭和31年、「石狩鉄道株式会社」が設立され、昭和32年には、札幌北10条から石狩町に至る間の鉄道敷設と営業が運輸大臣から許可された。それに伴い、同社は、「札幌―石狩間鉄道計画書」を発表、一部工事にも着手したが、昭和36年に挫折した。それは、町長、町議会議員の改選による議会内部の情勢変化や同社に売却した町有地の処分で紛糾したことなどによる。その後「石狩鉄道株式会社」は昭和38年、社名を「札幌臨港鉄道株式会社」と改め業務が引き継がれた。
昭和40年代になると、札幌市に近接する地理的優位性が脚光を浴び、第一次産業主体の町から都市化の方向への開発振興がはかられるようになった。
昭和45年、「第三期北海道総合開発計画」に"石狩湾沿岸に流通港湾の整備を図る"ことと"都市圏鉄道輸送の増強・近代化を促進する"ことが組み入れられた。
昭和47年、北海道開発審議会が、「石狩湾新港開発基本計画」を了承して答申を決定したが、その基本計画の中に、臨港鉄道新設の検討や高速軌道の延伸が記載された。しかし、その後、トラック輸送の発達により、臨港鉄道建設の動きはストップした。
昭和49年、札幌市にも地下鉄南北線の石狩湾新港までの延伸構想があった(市議会への市長答弁)。
昭和50年、北海道議会総合開発調査特別委員会で、開発調整部長から地下鉄南北線の新港地区への延伸を考えるとの答弁があった。
昭和54年、石狩町花川地区有志による『石狩町「花畔(花川)地区」都市高速電車(地下鉄)誘致促進期成会』が結成された。
昭和56年、「石狩町都市高速軌道研究会」が発会した。
昭和60年、都市モノレール導入による札幌市中央部との連結と云う考え方が強まり、三菱グループによるモノレールの耐雪実験が行われた。
ko1-1-2.JPG

田中さんの資料は、ここまででしたが、その後の動向は、釣本峰雄さんが発表された資料によって示されました。

平成元年、「石狩町都市モノレール等推進協議会」発足。
平成6年、「札幌圏北部地域交通体系連絡協議会」発足。
平成16年、「石狩市軌道系交通機関導入促進議員協議会」発足。
北海道は、平成10年から鉄道案を検討した。
平成15年、人口予測に基づく需要予測を行ったところ、将来需要は予測を大きく下回り、採算確保は困難であり、需要の喚起や事業費の削減、あるいは鉄道以外の新交通システムの導入も必要との調査結果が示された。
平成16年、鉄道新線建設による波及効果は少ないとの報告がなされ、鉄道の検討は事実上ストップした。札幌市からも、これまで検討を行ってきた新交通の導入については改めて検討が必要との見方が示された。

 田中さんのお話を聞いて、石狩での鉄道敷設が様々な形で計画されながらも今に至るまで実現していない状況が良く分かりました。また、お話しぶりも、いつもながら、それぞれの事柄に関わった人物の出身地や逸話等を交えて、大変奥行きのあるものでした。5月9日の次回は、カール・レイモンさんにまつわるお話と生振に計画された国際空港のお話が聞ける予定で大変楽しみです。




CONTENTS コンテンツ

カレッジ生募集中

ボランティアスタッフ募集中 詳細はこちらから

いしかり市民カレッジ事務局

〒061-3217
石狩市花川北7条1丁目26
石狩市民図書館内社会教育課
Tel/Fax
0133-74-2249
E-mail
manabee@city.ishikari.hokkaido.jp

ページの先頭へ

ご意見・お問い合わせプライバシーポリシーサイトマップ