7月12日(木)講座3 村山耀一さんと歩く「石狩歴史散歩~石碑が語る先人の足跡」の第3回「 厚田・望来ダムを訪ねて」を行いました。講師は、石狩市郷土研究会会長の村山耀一さん、受講者は33人でした。
今回の講座は水がテーマですが、3回目は雨まで降ってまさに水のシリーズとなったのでした。
車中で聚富(しっぷ)「伊達邦直主従北海道移住の地」碑の説明を聞きながら、厚田区望来(もうらい)の望来ダムへ向かいました。
○望来ダム(望来は、アイヌ語モライ"遅い流れ"に由来)
望来は、江戸時代アツタ場所の一部として漁業で開けたが、明治4年に旧庄内藩から14戸45人が入植したのを皮切りに南部団体や山口県、石川県などから入植して農業が行われるようになった。戦後は望来川、正利冠(まさりかっぷ)川、知津狩(しらつかり)川沿いに造田が進んだが常習的に用水不足の状況にあった。
望来ダム(昭和54年着工で平成9年竣工、アースダム形式)の建設によりこの地区の水田・畑940haに安定した水供給が行われるようになった。
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望来ダムを視察したあと、古潭(こたん)へ向かいました。
○厚田村発祥之地・碑(昭和43年建立)
安政5(1858)年、古潭に和人が初めて越年するようになって、この地での本格的な漁業開拓が始まった。明治2年から明治7年までは、開拓使厚田出張所が置かれていた。また、明治8年に郵便局が、明治13年には戸長役場が設置された。しかし、その後郵便局は厚田村に、戸長役場は別狩村に移転し、明治35年に古潭村は厚田村の一部となった。
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○弁財船投錨地・碑
江戸期は、春から秋にかけて大阪を出港し、瀬戸内海を経て日本海を北上する弁財船(北前船)が、本州と北海道を結ぶ唯一の交通手段であった。古潭神社の下に見える押琴(オショロコツ・アイヌ語で神様のお尻の意)の入江は南北を岩礁に囲まれた天然の良港として、当時は弁財船が停泊し、運上屋や弁天社も置かれていた。
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○龍沢寺 (文久元《1861》年創立、曹洞宗)
本堂正面の門柱の横木に飾られている竜の彫り物は寸足らずで、押琴にあった運上屋の弁天社のものを使用したものと考えられている。
アツタ運上屋弁天社旧蔵で「寛政三辛亥年三月」の銘のある鰐口や慶応期以来の位牌が安置されているなど、近世から伝存する文化財が少なくない。
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○八幡神社(明治5年創立)
元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子が設置されている。階段は93段。
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○顕彰碑(昭和40年建立)
古潭小学校創立90周年記念事業協賛会により建立された。古潭では、明治9年、村民の佐藤辦蔵が自費で教員を雇い、駅逓で児童への教育を始めた。
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○開校百年・碑、友愛の郷・碑
いずれの碑も、現在は山の手学園ふれあいセカンドスクールとなっている元古潭小中学校跡の校庭に立っている。
このあと、古潭を出て厚田へ向かいました。
○厚田 正眼寺 佐藤松太郎墓碑
明治・大正期、鰊の大網元で道会議員としても活躍した佐藤松太郎の墓。大正7年の漁家長者番付では横綱の地位をしめた。大正7年、流行性感冒で他界。松太郎と妻ヨシ子の戒名は、院殿号を用いた最高の物となっている。佐藤家の屋号は「山丸」家紋は「源氏車」。
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○自然山 正眼寺(文久2《1862》年創立、曹洞宗)
本堂には、佐藤家の仏壇を安置。俳句結社正風会の俳句56首の額が鴨居の上に取り付けられていて、鰊漁最盛時の厚田村の文化の高さを偲ばせる。
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ここで、お昼になり、厚田総合センターで昼食を取りました。
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○鰐口、厚田全郡漁場図面
総合センターに展示してある鰐口(村山伝兵衛が押琴の弁天社に寄進したもの)と漁場図面(巻物、北海道開拓記念館保存の物とは相違)を検分。
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午後からは、まず佐藤辦蔵の墓から巡検。
○大講義佐藤辦蔵墓
佐藤辦蔵は、津軽温湯村に生まれ、安政4(1855)年厚田に移住。厚田、古潭の寺子屋、教育所を創設、剣道場も開設した。学校、役場、病院、神社、寺院など多くに関わり、各所に多数の寄付をした。通行取扱、駅逓取扱、村総代、郡総代、学務委員など要職を歴任、消防組織の結成にも貢献した。
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○厚田小学校正門(昭和12年創立)
明治10年、厚田教育所創立。厚田学校(明治14年)、厚田尋常小学校(明治27年)、厚田尋常高等小学校(明治28年)と改称して、昭和22年に厚田村立厚田小学校となる。平成17年に石狩市立厚田小学校となる。
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○厚田尋常小学校改築記碑(明治45年創立)
佐藤松太郎は、明治43年の厚田小学校改築の際、1万円を寄贈した。
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○元有楽館蔵
有楽館は佐藤辦蔵の別荘。写真を見ると、玄関の屋根は千鳥破風、蔵の入り口は唐破風になっていて寺院建築様式を撮り入れた立派な物である。有楽館は、その前で消防団員の団結式も開かれ、住まいとしてだけではなく村民の集会の場としても使われた。蔵は、札幌軟石を使用。
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○厚田神社(嘉永元《1848》年建立)
大正5年に、佐藤松太郎、ヨシ子夫妻が石畳、石段を寄進。
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○豊漁記念碑
明治24(1891)年建立。
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○撃剣道場 直心館之碑(昭和52年建立)
明治25年、佐藤辦蔵は、福島出身の剣士・牧田重勝を招き、発起人となって剣道場「直心館」を開設し、盛時は、123名の門人が集まった。
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○戸田旅館
佐藤松太郎の母親の隠居所として建てられ、今は旅館となっている。
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それから厚田市街を離れて夕日の丘へ移動。
○にしん街道 標柱(平成20年建立)
江差、上の国、松前の観光協会でつくる「北海道歴史倶楽部」は、平成16年に松前から稚内までの日本海沿岸約700㎞を「にしん街道」と命名し、「にしん」で繁栄した共通の歴史と文化を持つ証しとして、日本海沿岸の31市町村に、「にしん街道」標柱を設置することにした。
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○漁師の礎 海難慰霊碑(平成23年建立)
縄文時代から4,000年にわたる石狩の鮭漁や厚田のにしん漁の歴史を語り、その陰で海難により犠牲になった人々を慰霊し、航海と操業の安全を祈願したもの。田岡克介市長の書。
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これで、厚田の碑巡回を終え、望来へ戻りました。
○平和祈念碑(望来神社境内、平成4年建立)
昭和20年7月15日、望来は、突如来襲した米軍機による2時間にわたる反復攻撃を受け、11人の犠牲者を出した。碑は、平和と、戦争の悲劇を繰り返さないことが犠牲者の供養となることをねがい建立された。
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平和記念碑を最後に、本日の石碑巡りは終了しましたが、とうとう止まなかった雨の中、精緻な資料を付けていつもながらの懇切丁寧な説明をして下さった村山さんに受講者一同感謝しながら帰路についたのでした。
受講者からも
「村山先生の研究の深さに感動いたしました、次回の講座を期待しており、浜益の歴史を希望します」
「最終回が雨の中でのツアーとなったのは残念だったが、これまで知らなかった場所、物、事などを知ることができ、参加してよかった。今後もこのような企画をお願いします」
「事務局スタッフの方々の親切な対応と博識の村山先生の説明、毎回の貴重な資料に大変感謝しております。ありがとうございました」
「石狩にも人や碑をはじめとして歴史的なものが多数残されている事が判り大変勉強になりました。特に、花畔から銭函までの運河跡には感動しました」
「今日と同様な内容で重複しても良いので、バスめぐりを楽しみにしている。厚田、浜益地区に現地集会場等でスライドを使って紹介してみては」
「このシリーズは全て参加させて頂きましたが、毎回新しい発見ががあり、奥深さを感じています。次の機会を楽しみにしております」
「講座企画、毎回思いますが素晴らしいです。私もおかげで若干ながら石狩市のことをお話する事が出来ました。スタッフの皆さん大変ご苦労さまです」
「厚田には記念碑や有名人が沢山出ていてお寺も5軒もあることを知りませんでした。吉葉山には石狩に来た時お会いしています(子供の頃)あまりの大きい人にびっくりしたことを今でも覚えています」
等などのコメントが寄せられました。