8月9日(木)講座6 『北海道開拓者精神とは・・・』の第2回「開拓使最初の屯田兵村 琴似」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、琴似屯田子孫会事務局長の永峰 貴さん、受講者は33人でした。
講座の内容は以下の通りです。
①屯田兵制度とは、明治6年12月に、時の開拓使次官黒田清隆の建議で、北海道の開拓と北方警備のために創設された日本軍事制度史上でも特筆される画期的な制度です。あるときは鍬を振るい、あるときはこれを銃に持ち替えて、家族ぐるみで軍隊式の厳しい制約を受けながら、本道開拓の基盤を確立し、郷土の防衛治安維持に身を挺したのである。明治37年に屯田兵制度が廃止されるまで30年間続きました。
②「兵村第1号が琴似になったわけ」
・屯田兵を置く場所は、次の条件を満たしている必要がありました。
1.その地域は、防衛上あるいは治安上重要であること。
2.戦略の面でも、開拓の面でも1中隊が入植できるだけの地積があること。
・また、小樽港は、北方領土の海域を防備する根拠地であるばかりでなく、樺太へ行くための拠点でもありました。
・小樽への移動、そして札幌本府を防衛するという戦略的な面と、肥沃な平野部に位置する開拓事業の面から見ても、札幌寄りに位置する琴似に兵村第1号が誕生することになったのです。
③「屯田兵招募計画」~戊辰戦争に負けた東北の武士たちを中心に募集をはじめたが、実際には思いどおり集まらなかった。そこで、族籍を無視して平民の入植を認めたりすることで定員を満たさざるを得なかった。「開拓使最初の屯田兵村琴似」に入植する予定人員208名より10名不足のまま、明治8年5月、宮城・青森・酒田三県及び管内士族等入隊を願うもの198戸男女965人が琴似村に入植。
④「兵村の構造と移り変わり」
・初期の兵村は、兵屋がぎっしり建ち並んだ「密居型」。これは、軍略的に便利で、建築費が安くすんだ。
・1回目の大移動で、「分散型」になる。~給与地があっちこちにだんだん増えた。それを、話し合いを積み重ね、まとまった土地にし、そこに居住するようになった。
・2回目の大移動~明治34年給与地の売買が自由になったため。
2回にわたる開拓者精神についてのお話を聴いた受講者からは
・大変な苦労で開拓され、今の北海道があるんだと感激しました。
・永峰先生の詳しい資料と丁寧な説明が、解りやすく大変良かったです。
・北海道開拓の基礎を築いた屯田兵の苦労と実績が現在の琴似地区、屯田地区発展への礎となり、これが札幌北地区の発展に繋がっていると 思います。屯田兵の苦労が偲ばれると共に先人の思いを、北区の地域住民に広報にて伝えたいと思います。
等などのコメントが寄せられました。