5月9日(木)主催講座1 田中實さんが語る~「いしかりの歴史」の第2回 札幌市との境界を流れる「発寒川の移り変わり」を総合保健福祉センター"りんくる"で行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は59人でした。
以下は、お話の概要です。
□発寒川
石狩川の三次支流で、紅葉山砂丘の東裾に沿って東北流し、創成川下流に注ぐ川。
1.川の移り変わり
・江戸時代には、石狩から発寒、琴似を経て札幌(篠路)へ至る川の道であり、丸木舟でかなり上流まで上る事が出来た(「入北記」の記述など)。
・明治初期、石狩と札幌の行政境界は、発寒川の流路で決められたが、当時の発寒川は、現札幌市手稲区・西区から北区にまたがる支流の多い大きな水系だった。
・その後、明治20(1887)年の新川の完成により、発寒川は二分され、新川の北側部分が次第に消滅した。
・現在は、流域面積2,000ha、流路約9.8㎞の川巾せまく、水量も少ない川となっている。
2.発寒の地名
・江戸時代の文献では、はつしゃぶ、ハツシャフ、ハツサフ、ハチヤム、発作部などと書かれているが、原名はアイヌ語。
3.発寒川の誕生
・約5,500年前に、現在のような紅葉山砂丘が出来た。
・その後、海面低下が続き、砂丘の外海側(花川地区)は陸地に、内海側(新琴似、屯田地区)は、低湿地となった。この低湿地を流れていた川のいくつかが砂丘の東側沿いに寄って出来たのが、発寒川の下流。
4.発寒川のサケと古代~近代の人たち
・サケの産卵場所であった発寒川周辺にはサケを追って人が集まり、その遺跡は、上花畔一遺跡(緑苑団地内、5,500年前)、紅葉山33号遺跡(花川南公園、約2,000~1,300年前)、紅葉山49号遺跡など40ヶ所ほどある。
・サケ漁では、槍の他、ウライ(魚を捕るために川に造るヤナ)が使用された。
・発寒川ウライの漁獲高は、安政2(1855)年で、年間200石(12,000尾)(村山家文書)
・安政6(1859)年、石狩役所が、石狩川水系のサケ資源保護のため発寒川のサケ漁を禁止とし、流域のアイヌの人達の生活に大きな影響を与えた。
5.発寒川河畔―防風保安林
・花川南地区を斜めに通過する防風保安林は、明治26(1893)年、花畔原野の植民区画が設置された時、設けられた天然林地。
・林内では、小潅木31種、シダ植物11種、草本113種、鳥類28種が確認されている。
6.発寒川周辺花川地区の開拓時代
「入植当初、この地域は限りなくつづく昼なお暗い林だった」「期限付きの開拓であったので、入植者は、夜明けから夜になるまで開墾に励んだ」「クマを鉄砲で7頭もうちとった」「家は掘立小屋、床はなく土間に草とむしろを敷いた」「食べ物は、いなきび、あわ、ヒエ、えん麦など」等など
7.発寒川と水田
・大正15(1926)年、屯田墓地の南東で、52町歩(約51ha)の造田が始まった。
・昭和23(1948)年、25haを造田、発寒川から揚水した。
8.発寒川周辺の都市化開発
・石狩市郷土研究会「いしかり暦・石狩市郷土研究会創立50周年記念号」に22頁の概説年表が掲載(田中實)されている。
お話の概要は、以上の通りですが、前回同様新しい資料も添付しての詳しいお話振りでした。受講者からも
「札幌市民ですが、大変おもしろい話を聞くことができました。」
「毎回、石狩の歴史のお話が種々変わり、なるほど、そんな事が、とか今迄想像もつかなかった事が分かり大変勉強になりました。」
「田中先生の講座は、わかりやすくて、ユーモアがあって、聞いていても非常に楽しく参加出来て本当によかったです。」
「新しい資料を付加されて、非常に奥深いお話を、ありがとうございました。新しい疑問について、じぶんでも資料を求めてみたいと思います。」
「本講座は、始めて参加しましたが、とっても楽しいものでした。脱線するほど知識が豊富でもっともっとお聞きできたらと思いました。」
等などたくさんのコメントが寄せられました。