10月19日(土)、石狩市民図書館において、主催講座10「旧石器、縄文、弥生の人類、そして文化」の第1回「アジアの人類史から見た、日本人の2重構造」の講座を行いました。講師は札幌医科大学医学部准教授の松村博文さんです。受講者は28名でした。
最初に「札幌医科大学は昔から人類学に歴史がある大学です。最近アイヌ民族が先住民族であると認める国会決議がなされました。アイヌ民族が先住民であるか否か、分かるのはDNAと人骨です。アイヌ民族の人骨は縄文人の骨格を色濃く残しています。アイヌ民族が縄文時代からこの地で暮らしていた先住民族であることをDNA,骨格などで証明したのも札幌医科大学の先人たちです」と話され講座が始まりました。
日本人の起源について話され、20~30年ほど前までは日本人は、昔から日本に定住していた純粋な単一民族であるとする考えが定説でしたが、ここ20~30年ほど前から考えが変わってきました。日本人の成立ちは先住していた東南アジア系の縄文人と渡来人(弥生・古墳)の北東アジア系の人たちと交雑し、過去2000年間西から東へと交雑拡散していったのが現在定説になっています。西日本の人達には渡来人の遺伝的要素が強く、東日本の人達には縄文系の特徴が多く残っていまし、北海道、沖縄、離島では混血が進まず縄文系の遺伝子が強く残っています。我々日本人は東南アジア系の先住民である縄文人と、渡来人の北東アジア系の人達のミックスで成り立っています。そしてこの縄文系の人と渡来弥生系の人達の混血は現在も盛んに続いています。
これらの日本人の二重構造モデルの提唱者が札幌医大の助教授(のちに東大教授)だった埴原和郎先生です。
縄文時代の骨は良く残るそうです。それは貝塚に埋葬されるからです。弥生時代以降、骨はあまり発掘されないそうですが、日本は火山灰土壌で酸性のため骨が溶けてしまいます。貝塚での埋葬は貝などのカルシウムによって保護されるので残るのだそうです。
余談として貝塚に埋葬するのは現代からすると疑問に感じるが、縄文人は生命の輪廻を考え、土に返し、またよみがえる神聖な場所であったと考えられるそうです。
頭骨から見る縄文人と渡来系弥生人の比較をすると
縄文人 渡来弥生人
低顔・彫深 高顔・平坦
四角い眼窩 丸い眼窩
突出した眉間 平坦な眉間
そり上がった鼻 低い鼻
寸詰まりの顔 面長の顔
歯が毛抜き状噛合わせ 歯が鋏状噛合わせ
歯が小さくシンプルな形 歯が大きく複雑な形
さらに
2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。そして関東地方にゆくと縄文系の特徴が入ってきます
いろいろな地域で地域色が出るのは混血頻度が影響していると思われます。
縄文系の人達と渡来系弥生の人達の特徴をコンピューターで計測比較するといろいろおもしろい結果が出ます。
縄文系(アイヌ・沖縄の人達) 渡来弥生系(西日本・朝鮮の人達)
頭の形 長頭(前後に長い) 短頭(丸い)
顔の形 四角で彫が深い 面長でのっぺり
手足 手足が長い 胴長・短足
目 大きく丸い 小さく細い
瞼 二重 一重
蒙古襞 ない ある
ウインク うまい(アイヌ・沖縄の人達) へた
耳たぶ 福耳 薄い
耳垢 ウエット型 ドライ型
髭・体毛 濃い 薄い
歯(ショベル型切歯) ない ある
日本人の90%が「ショベル型切歯」がある。アイヌの人達、東南アジアの人達
は「ショベル型切歯」があまり発達していない。
この様なことは明治初期に来日し、東大医学部の教授をしていたE・ベルツが日本人の顔、体型がバラエテーに富んでいることを見て,帰国後論文にまとめています。ベルツは日本人を3タイプにわけました。
① アイヌタイプ― 非モンゴロイド系
② 薩摩型タイプ― ずんぐり型 丸顔 目が大きい 厚い唇
③ 長州型タイプ― ほそ型 細い顔 目が細く切れ長 薄い唇
薩摩型はマレー系に多いタイプとし、長州型は朝鮮、北方系の貴族に似たタイプとした。
またアイヌの人達は先住民であり、非モンゴロイドである。沖縄の人達と同じルーツを持つとしアイヌ同系論を唱えました。
これまでの話は、日本人は先住民である縄文人と北方アジア系から来た弥生人と混血をし成り立っていることを話しました。そして縄文人と弥生人の特徴を話してきました。そして2重構造が地域にも色濃く残っていることをお話ししました。
日本列島以外の国でも日本と同じ2重構造になっています。北から来た人たちと南方の人たちの混血で成り立っています。中国ではあまり変化は見られませんがそれでも北と南では顔つきが違います。東南アジアではそれぞれの国で顔つきが大きく違います。これは混血の頻度により変化しているからです。
約4000年前ごろにから北方系、揚子紅、黄河周辺に住む人達が農耕、家畜とともに南下しそれぞれ混血を繰り返しインドシナ半島、台湾,フイリッピンなどへまたそれに伴い言語も中国南部に起源を持つオーストロネシア語が台湾、ルソン島、インドネシア、等の言語に、オーストロアジア語も中国に起源をもちタイ、ミャンマー語の元となって広がります。
こうして人、稲作、家畜、言語が4000年前に中国からアジア全体に急速に拡散したと考えられています。
日中共同研究としてここ5年ほど中国の北から南を遺跡調査している。10000年前~5000年前の中国各地にある発掘調査について話されました。
アジアにおける人骨を遺伝的にみて表したネットワーク法の説明が行われました。
遺伝的に遠いものは離れた対極的位置で表されます。
対極の一方にある北東アジア系の人達は、モンゴル・シベリア・アリュート、この近い位置には弥生人も含まれています。そして東南アジア系の人達も新石器以降から遺伝的な要素が一部入ってきて北東アジア系の中に入りこみます。
対極にある南方系の人達は、オーストラリア、メラネシア、ニューギニア、この近い位置には新石器の縄文人もあります。そして中石器、旧石器時代の人達、ベトナム、カンボジアなどがいます。
これらのネットワーク図を見て、ベトナムでの新石器時代の2重構造の象徴例を説明され、新石器時代(4000~3000年前)には遺伝的には対極にある南方系ベトナムに北東アジア人が進出していたことを示し、二重構造になっている。
ベトナムのマンバック遺跡(新石器後半3500~3700年前)からは99体の人骨が発掘され、約20体は先住性の人骨で残りは北方アジア系の渡来人の人骨でした。同じ遺跡に先住性の人達と、北方系の人達が同居していた珍しい遺跡です。この頃には、北方アジア系の人達が東南アジアまで拡散していた事を裏付けています。
アフリカで15万年前に最初のホモ・サピエンスが生まれました。
4万年~1万年前には多種多様な人類が誕生しました。デ二ソア、ネアンデルタール、ホモ・フロレシスエンシス等です。いずれも絶滅しています。
その後人類はアフリカを出て拡散しますが、最近の科学雑誌では2段階説が発表されています。第1回目グループが7万年前に南回りでインド、東南アジア、オーストラリアと進出、一部は北東アジアへ、第2回目グループは3万年前に北東アジアに進出しさらにアメリカへと進出したとしています。
講師の松村先生は現生人類のユーラシア横断モデルとして2つのルートを考えています。
南回りルート アフリカからインドを経由し、8万年前にはスンダランド(東南アジア)へ、5万年前にはサフルランド(オーストラリア・メラネシア)へ、以後5000年前まで東南アジア広域に狩猟民として居住、日本列島にも移動し、そして縄文人に、ただし北回りグループと若干混血をする。
北回りルート もともとはマンモスハンター?か、シベリア・ステップ地帯を東進し30000年前旧石器時代には細石過刃文化とともに北東アジアへ(少数派は日本列島にも)、ベーリンジアを経て14000年前にはアメリカ大陸へも進出、最終氷期には寒冷地適応し東アジアを南下し長江付近で稲作農耕の技術、高い人口増加率、言語、家畜、を持ち中国南部、台湾を経てさらに東南アジアに拡散する。
山東半島から朝鮮半島経由で日本列島にも拡散し、縄文後期には徐々に、弥生時代には大規模になった。
まとめとして
・新石器時代以前(3800年前より古い中石器時代人)の狩猟民
オーストラリア先住民、メラネシア、アンダマンの人々と同系統です。縄文人もこの系統です。
ユーラシア南回りの解剖学的に現生人類です。
東南アジアには原モンゴロイドも、古モンゴロイドもいなかった。
・東南アジアは地理的・時代的に形態変異が相当大きい
新石器時代を転換期として、北東アジア人的な特徴に急激に変化する
農耕・言語の拡散に伴う北からの集団の南下による遺伝的影響が大きい
混血度の相違が大きな差異の一因である。
・中国においても先住民と農耕拡散に伴う移住民の二重構造が鮮明
先史狩猟民―スンダ・サフール系と農耕集団あるいは非農耕集団―北東アジア系との、ユーラシア東部における広範囲な二重構造が明瞭である。
・縄文人の起源
ユーラシア南回り由来のホモサピエンスがベースに=スンダ・サフール系
ただし多少の北東ジア人の混血がある。
・最大のミステリー・北東アジア人の起源?
ユーラシア東南アジア北上説か? シベリア横断説か?
北東アジア人の起源はまだ仮説段階であり、これからの調査が待たれると話され講座を終わりました。
松村先生、貴重なロマンのあるお話しありがとうございました。