1月28日(火)講座12 北の人物伝Ⅱ~「北海道の歴史を彩った人々」の第2回「船山馨が描く北海道開拓~『石狩平野』を読む」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、公益財団法人北海道文学館学芸員の喜多香織さん、受講者は、50名でした。
本論に入る前に、前回の講座の訂正と補足説明がありました。「多喜二の死亡についての新聞記事は、全集には載っていませんでしたので、訂正させて頂きます。また死因も心不全、心臓まひなどと書いてあり、拷問の痕が残る痛ましい写真なども戦前は隠されていて、見る事が出来るようになったのは戦後になってからです」
さて、船山馨のお話です。
先ず、会った方が異口同音で言うのは「背がすらりと高くて姿勢も良く二枚目だった」
次に北海道文学館に収蔵されている檜の一枚板の机が紹介されました。これは、北海タイムスに勤めていた船山馨が、勤めを止めて小説家に専念しようか迷って相談した高見順に激励され、その時貰った100円を使って買い、最後まで使い続けた物。
もう一つ、冬の旅と云う絶筆の原稿も紹介されました。原稿用紙の枡目が大きいのは、船山がひどい糖尿病で眼が見えなくなっていたからだそうです。
□ 船山馨の生い立ち
・1914(大正3)年、札幌生まれ。
新潟から入植した祖父母は一度は成功するが、その後没落。祖父は、病気養生で新潟へ帰り、祖母のトラが下宿屋を営み生計を立てた。
その一人娘イシと下宿していた北大生との間に生まれたのが馨。
天真爛漫な母イシは馨にとって母と云うより姉のような存在で、実質的には祖母トラに育てられた。養父は、森笛川。
子供時代は貧しく、祖母とトウキビ売りなども行った。
・大正15年、札幌第二中学校に進む(1年上級に彫刻家・佐藤忠良)
二中に入った動機は、一中とは違い「雪合戦」が無かったから。馨は、二中的臆病、と言っている。
文学に眼を開き、キリスト教にも興味を持った。
・昭和6年(17歳)、北大予科を受験するも、失敗。
・昭和7年(18歳)、早稲田大学第一高等学院に入学。
・昭和8年(19歳)、学費滞納のため、早稲田を除籍される。
・昭和9年(20歳)、明治大学予科に入学。
・昭和12年(23歳)、明治大学中退。北海タイムスに入社。
・昭和14年(25歳)、四社連盟の文芸記者として東京赴任。本格的な文学修業を始める。
・昭和15年(26歳)、同人雑誌「創作」の同人となり、編集兼発行人の佐々木翠(本名・坂本春子)と知り合う。
・昭和19年(30歳)、長男の誕生を機に坂本春子と結婚。
・昭和23年(34歳)、太宰治の死により、急に朝日新聞連載小説の依頼があり、1週間で5回分と云う無理な注文に応じなければならなかった。過度の緊張と責任感からヒロポンを常用するようになった。
・昭和24年(35歳)、妻春子と共に、ヒロポンを乱用するようになる。当時は、ヒロポンは特に禁止はされず、たやすく買うことが出来た。
・昭和25年(36歳)、ヒロポンによる幻覚症状が現れるまでになる。
・昭和26年(37歳)、高見順から諌められヒロポンを止める。
恩人的存在だった林芙美子が亡くなった。
・昭和30年(41歳)、ヒロポン中毒から回復。推理小説、時代小説、企業小説など中間小説で借金返済。
・昭和37年(48歳)、糖尿病悪化。この頃より「石狩平野」に取り組むことを決意。
・昭和41年(52歳)、「石狩平野」第一部完結。
・昭和43年(54歳)、「石狩平野」第二部完結。
その後、「お登勢」「蘆火野」などを発表。
・昭和56年(67歳)、心不全で死去。その日の夜、妻春子も死去。結婚依頼二人は、文字通り苦楽を共にした。
□小説「石狩平野」について
ヒロポン中毒から回復した頃から10年ほど構想を温めていた。
・創作ノートより
小説を書きはじめて二十数年を経て、いまの空漠たる思いはどこから来るのか。私はこれまで、ただの一度も<書いていなかった>のではなかったか。書かねばならぬ内奥の必然を避けたところで、書く必要のないことばかり書き続けて、五十年の歳月が流れ去ってしまったことが、このわびしさを呼ぶのであろう。
・創作の動機―『みみずく散歩』より
『石狩平野』の構想は、ながいあいだ少しずつ成熟しながら、私の胸底に棲みついていた。日本の近代の夜明けから、敗戦によるその一応の終焉までを、そこに生きた庶民の立場から振り返ってみることは、私の内側からの必然でもあったが、朝鮮戦争以来の外的状況も、この作品を書くことを私に要求していた。敗戦後いくらも経たないうちに、再び権力が非人間的な目的をもって民衆を強い、民衆もまた、その意のままに、盲目的に支配権力の意図する方向へ流されてゆくように見えることが、私の鞭となった。
・「石狩平野」ストーリー
舞台 小樽から札幌へ
明治編は、明治14年~明治43年まで。主人公の鶴代12歳から41歳。
時代背景
明治13年、札幌―小樽手宮間鉄道開通。
明治14年、小樽大火。
明治14年、開拓使官有物払下げ事件。
鶴代と次郎の出会い
少年は鶴代の足もとに体をかがめて、餅を拾おうとした。鶴代は爪先を縮めた。自分の汚れた素足を、藁草履ごとけしてしまいたかった。自分のみすぼらしさに、憎しみを感じた。それは嘗て経験したことのない感情であった。「さわるな、あっちへ行け・・・」噛みつくような声が、鶴代の唇を突いて出た。
厳しい北海道の自然を描写
蝗の来襲(明治12年~17年)
石狩川の氾濫(明治39年9月、全道に豪雨、洪水による大被害が出た、死者248人)
作品のモデル
鶴代(主人公、次郎とは惹かれあうが、結ばれず。明子は二人の子)・・・祖母トラ
伊住(官吏、次郎の父)・・・2、3人のモデルのミックス
明子(鶴代と次郎の子)・・・母イシ
直記(明子の子)・・・馨
壮太(鶴代の夫)・・・郷土史家で詩人の渡辺茂の新聞記事スクラップ(キタサンショウウオを見つけた釧路の小学校教諭)より
本日はこのように、船山馨の生い立ち、人となりがたくさんのエピソードと共に紹介され、「石狩平野」を書くにあたっての動機や時代背景などについても詳しいお話がありました。
お話を聴いて、船山馨と云う作家の人物像や妻の春子と二人三脚の壮絶な人生を目の当たりに想像することが出来、もう一度すぐにでも「石狩平野」を手に取って読み返したくなりました。
受講者からも
「船山馨が大変な人生をすごしたと知って作家の大変さを感じた」
「とても勉強になりました。先生、これからもがんばってください。反戦のところまでいって良かったです」
「船山馨の生涯にも心を打たれました、何と壮絶ななのでしょう!石狩平野が、彼の一族がモデルということを知り、感激しました。この 作品に出会えて幸せに思えます。作者の他の作品もぜひ読みたいです」
「小説の内容や作品の持つ『力』をもっと説明してほしかった」
「作者の人となりに触れ、もう一度読んでみたいと思いました」
「本の厚さを見て、二の足を踏んでおりましたが、開設を聴いているうちに船山馨作品に興味を持ちました。ぜひ読んでみようと思います!ありがとうございました」
「今回新たに知り得た事々を基に、改めて作品を読みなおすと、また違った感慨があるのでは?と心楽しみが増えました。様々な人々の縦 横のつながりも興味深く聞かせて頂きました。有難うございます」
等など、多くのコメントが寄せられました。