4月16日(水)講座1『ネルソン・マンデラが夢みたアフリカ大陸』の第1回「政治がつくりだした格差と貧困大陸」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、当別町長の宮司正毅さん、受講者は84名でした。
宮司さんは、元三菱商事の商社マンで国内きってのアフリカ通、お孫さんの世話を頼まれるなどネルソン・マンデラとは個人的にも深い親交のあった方です。池上彰著の「世界を救う7人の日本人」(日経BP社)でも7人のうちの一人に取り上げられています。
「かって暗黒大陸と言われたアフリカも、今では毎年5~6%の経済成長を維持しています。そして、今のアフリカがあるのは、ネルソン・マンデラがいたからです。彼は、現在の政治家ではナンバーワンです」と云う言葉でお話は始まりました。
最初に南アフリカの概要や歴史が、地図で位置を指し示しながら紹介されました。
□南アフリカは
人口:5,011万人(世界で24番目)で驚くことに11の公用語がある。
□南アフリカの特徴
・鉱物資源の宝庫(特に希少金属)
資源の供給元として日本にとって重要な国。
・野生動物の宝庫
動物に対して、愛情のこもった口調で話された宮司さんが印象的でした。
・花の楽園
生息する植物は2万4千種。
・観光立国
ブルートレインは世界一の豪華列車。天空に踊る星座(南十字星)
・治安が悪い
殺人事件は、年間2万件。また、国民の4~5人に1人がHIVに感染している。
□南アフリカ 略史
・紀元前からサン人(ブッシュマン)とコイコイ人(ホッテントット)が住み、後にバンツー系諸民族も住むようになった。
・1652年にオランダのケープ植民地ができたが、1799年にオランダ東インド会社が解散、農業従事植民者は故国を失い、アフリカーナー(アフリカ人)を名乗るようになった。
・その後、英領となったが、奴隷労働廃止策に反発したアフリカーナーは3つの共和国を建てた。
・二度のボーア戦争(イギリス対アフリカーナー)でイギリスが勝利し、南アフリカ連邦(大英帝国内自治領)となったが、1948年にアフリカーナーを基盤とする国民党が政権を樹立し、1961年に、南アフリカ共和国が成立した。
・その後強固なアパルトヘイト政策をとり世界の非難をあびた。
・1990年、終身刑のマンデラが27年振りに釈放された。
・1991年、デ・クラーク大統領が全アパルトヘイト法の廃止を宣言、実行した。
・1994年、マンデラが大統領になった。
□ネルソン・マンデラの活動
・1918年、誕生。
・在学中に、ANC(アフリカ民族会議)に入党。
・1952年、弁護士事務所開設。ANCの副議長に就任(ガンジーに倣った非暴力主義)
・1961年、軍事組織ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)を組織して初代司令官になる。
・1962年、逮捕され64年に国家反逆罪で終身刑に。
・1990年、27年振りに釈放される。
・1993年、デ・クラークと共にノーベル平和賞受賞。
・1994年、大統領となる。
□マンデラの人柄、語録
・破壊活動を行う際も、人のいない場所でと指示した。
・裁判では、自ら弁護士としての発言を求め、4時間にわたり演説した。
死を覚悟して、破壊活動を認めた。しかし、それは、白人の永年にわたる民衆への抑圧、支配、搾取を冷静に判断してのことで、非暴力では駄目だったから。私は、これまでまたこれからも、民衆のために身をささげる。その為に殺されても良い。
・牢獄では、看守からも敬愛され、マンデラ学校ができた。
・釈放された時に「白人も南アフリカ人である。私たちは、白人も安心してくらせる人種を越えた国家にしたい」と語った。
また黒人に対しては「黒人の政権になっても、すぐにベンツに乗れると考えてはいけない。白人達は働いて今のくらしを得た。黒人もこれから働いて豊かになろう」と戒めた。
・「アパルトヘイト政策は、多くの歳月を経ないと癒されない傷を残したが、抑圧と暴虐の時代の中で思いもよらない副産物が生まれた。それは、勇気と知恵と度量を持つ人々が現れたこと。このような崇高な人格を生むには、あれだけの強い抑圧が必要だったのだろう」
宮司さんは、最後に「自由への長い道」と云うマンデラの自伝を紹介され、マンデラが辛い獄中生活で心の支えとした言葉を披露してお話を終えられました。
「辛い時に、私を励ましたのは、看守が垣間見せる人間性だった」
「人間の善良さは消えない。人には慈悲と寛容の心が備わっているものだ。憎むことは元々あるのではなく学ぶのだ。憎むことを学べるなら愛することも学べるはずだ」
「我の運命を決めるのは我なり。我の魂を制するのは我なり」