4月19日(土)主催講座2『知られざる隣国ロシアとのかかわり』の第1回「各地に送られたシベリア抑留者の真実」を花川北コミュニティーセンターで行いました。受講者は59名です。
講師は石狩市郷土研究会顧問の山口福司さんです。
まず山口さんより自己紹介がありました。大正10年生まれの今年93歳になります。昭和16年9月に徴兵検査を受け、甲種合格し12月1日に陸軍に登録されました。12月8日には太平洋戦争が始まり、1か月後には軍隊にとられ、満州の関東軍に入隊し日中戦争にも参加しました。太平洋戦争は3年9か月続きましたが20年8月15日に戦争が終わりほっとしたところで、スターリンにほれられてソ連邦のウズベキスタンに連れられて行かれた。我々昭和16年兵は大東亜戦争のために生まれてきたようなもので開戦から終戦までお付き合いさせられ、さらに不幸にも強制抑留、強制労働までつき合わされたと話され本題に入りました。
大変貴重な資料で資料1として昭和21年頃のソ連領内の日本人収容所分布について説明がありました。2万人以上の収容所から1万人以下の収容所まで広大な旧ソ連領全域に渡り収容所があったことがうかがえる。東はカムチャッカ半島のペトロパウロスクから北は北極圏の北緯70度に位置するナリリスク、ドシンカ等冬はマイナス70度~80度にもなるそうです。西はウクライナのハリコフ、トビシリ、南は中央アジアのウズベキスタンのフェルガナ、べグラ等まで広範囲に広がる。特に極東地域そしてバイカル湖から西の地域に多いことがわかる。
山口さんは最初中央アジア,ウズベキスタンのフェルガナ、ゴーカンド近辺に1年7か月ほど抑留され、その後ナホトカのほうに移り1年ほどいたそうです。
収容所も3か所変わったそうです。
ウズベキスタンは夏プラス40度ほどになり、ナホトカは冬マイナス40度にもなるそうです。環境の変化に対応するのが大変だったようです。
資料2としてソ連、外蒙古内各地点死亡者発生状況概見図について説明がありました。南樺太での死亡者が多いことと、シベリア鉄道沿いに3000人~2000人の死亡地点が点在しているのがわかります。山口さんが抑留されたウズベキスタン地区は死亡者が少ない。これは気候がよく食べ物、着るもの等が不自由しなかったこと、受入体制もよかったのではないかと思っているそうです。
資料3として戦後強制抑留者の主な埋葬地について説明がありました。
地図を見ると旧ソ連全体に埋葬地があるが、とくに沿海州からシベリア鉄道沿いに集中して多いことがわかる。全体では埋葬地は1064ヶ所にもおよぶ。しかし最近では3957ヶ所あるのではないかとの話もあるそうです。
資料4として収容地区番号と地域別死亡者数について説明がありました。
やはり旧ソ連全土に広がっていますが、カムチャッカ州には75160の番号もあります。地域別死亡者数についてはやはり沿海州地方で7,656名、ハバロフクス地方で11,091名、そしてシベリア鉄道沿いの州、共和国が圧倒的に死亡者が多いのがわかる。また山口さんが抑留されたウズベク共和国は20,000人ほど抑留されたが死亡者が882名と少ない。やはり気候などの環境がよく受け入れ態勢が良かったからと思われる。
添付資料として日本軍の捕虜の収容、強制労働利用に関する「スターリン極秘指令の全文」が説明されました。1945年8月23日の国家防衛委員会決定として日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置・労働利用について種々の事項について決定し指示を出している。①極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本軍捕虜を50万人選別すること。②移送に先立ち捕虜の中から各千人からなる建設大隊を組織すること。また各地域における労働場所、各工場などきめ細かく指示している。終戦になっているにもかかわらずこの様な国家指示が出されたことに驚きを感じる。
なぜこのような強制労働が行われたか、それは独ソ戦によってソ連が破壊され失ったものがとてつもなく大きく、損害を捕虜によって復興させようとしたことによる。
「ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳」について説明がありました。
ソ連に抑留された軍事捕虜は日本だけと思われているが、ドイツ2,389,560人・日本639,635人・ハンガリー513,767人など東欧、北欧、中欧、南欧、中国、ジプシー等世界24か国に及んでいる。総数にして4,170,000人にも及ぶ。
「ソ連の対日宣戦布告」を読み説明を受ける。1945年8月8日対日宣戦布告がだされた。宣戦布告の内容としては、7月26日の無条件降伏要求は日本政府によって拒否された。よって連合国はソ連邦に対して対日戦争に参加し平和に資する提案がありそれを受諾し戦争状態にあるとし宣戦布告する。とある。
スライドを使い満州の位置関係を紹介し、8月8日以降のソ連参戦当時山口さんの話をされました。シベリアにおける抑留時の森林伐採風景、鉄道敷設風景、極寒の中での野天掘りトイレ風景、昭和23年5月6日の山口さんの乗った帰還船の風景が紹介されました。
またロシア各地に残るきれいに整備された日本人抑留者の墓地を紹介し、ウズベキスタンには日本の桜を見せてやりたいと当時内閣補佐官だった中山恭子さんが植物検疫の厳しい中、さくらを植樹されて今はきれいに花を咲かせているそうです。
シベリアにおける日本人抑留者40,000人の名簿を回覧し皆さん感概深げに見ていました。
山口さんの93歳とは思えないしっかりした口調でのお話感心いたしました。
また受講生の皆さんも600,000人余の人々が、不条理にも極寒の地、シベリア抑留させられ極限状態の中で亡くなられた60,000人余の方々のお話に深く心を打たれたのではないでしょうか。