5月8日(木)講座3『田中實さんが語るとっておきの話~石狩海浜地域のうつりかわり~』の第1回「石狩海浜地域のうつりかわり」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は56名でした。
田中さんは、石狩の砂丘と砂浜は、北海道自然環境保全指針において「保全を図るべきすぐれた自然地域」に選定されていること、カシワ林は防風保安林になっていること、平成12年に石狩浜海浜植物保護センターが開設されてからはこの地域の保全・保護を目指す市民のボランティア活動も盛んであることなどを紹介された後、江戸時代から200年以上にわたる石狩海浜地域のうつりかわりについてのお話を始められました。
まず、石狩湾新港が出来る前の石狩海浜地域の航空写真が披露されました。
次に、石狩湾新港の配置を重ねた画像も紹介されました。
□石狩海浜地域のあらまし
石狩海浜は、小樽市銭函から石狩川河口まで約20㎞、汀線から石狩砂丘まで幅50~100mで続いている。これは、石狩湾の沿岸流によって運ばれた砂礫の堆積によるもの。その内側(汀線から200mまで)の砂丘は最大で10mの高さとなる。
海浜の形成期は、今から700~800年前頃からそれ以降と考えられている。土性は風成砂丘。植生は、オカヒジキ、コウボウムギ、ハマニンニク、ハマナス、ススキ、トクサ、チマキザサなどによる草原。
内陸側の砂丘は高さ6m以下の緩やかな起伏をなし、カシワ林に覆われて地表は黒色の砂質腐植層、その下に風成砂層、最下部は海成地層となっている。砂丘の形成時期は擦文時代(約1,000年~1,500年前頃)からの古いもの。
また、この海浜地域には、かって、オタルナイと十線浜と云うふたつの漁業者集落があったが、地域開発とともになくなった。昭和57年には石狩湾新港の一部供用がはじまった。
□ヲタルナイ~イシカリの往来
江戸時代、江差から北の日本海沿いで一番繁盛していた町は鮭漁で栄えた石狩であり、多くの人々が往来した。
石狩への主要交通路は、①サッポロ越新道 ②銭函―イシカリ―アツタを海岸伝いに結ぶ浜中道 ③千歳―ツイシカリ―イシカリ間の川航路、であった。②の銭函―イシカリ、イシカリ―アツタ間はそれぞれ一日行程で途中フンベム(モ)イには小休所があり、オタルナイ・イシカリ場所の境界のオタルナイ川には渡船があった。
往来記から読み取る石狩
①1798(寛政10)年、武藤勘蔵「蝦夷日記」
オタルナイで昼休み、海岸歩行して暮れ方にイシカリに到着。西蝦夷地第一の繁盛。
②1805(文化3)年、東寧元槙「東海参譚」
イシカリにはアイヌ百軒、運上屋11軒。鮭は30~40年前は12ハイ程だったが、近来は不振で5~6ハイ。1ハイは千石積み船一艘で鮭5万本。
イシカリ川は深い所で30~40尋(1尋は約1.8m)、川で海の魚が獲れる。
③1854(嘉永7)年、堀利熙、村垣範正「蝦夷紀行」
立木は柏のみで8尺くらい、トクサばかり(※石狩の海岸砂地に湿地性のトクサが多いのは、下層に水の層があるため。石狩の最初の水道事業は、地下180mにある水脈を汲み上げていた。また、石狩の志美はアイヌ語のシビシビウシ≪トクサの多いところ≫が由来)
イシカリは、運上屋阿部屋伝次郎、支配人円吉、運上金千五百両。
④1856(安政3)年、松浦竹四郎「竹四郎回浦日記上」
オタルナイ川は、大きな木を橋としていた。
当時のイシカリの様子
⑤1857(安政4)年、関宿藩士成石修「東徴私筆―成石修識」
オタルナイ川は渡し。銭函から石狩まで8里。
⑥1858(安政5)年、函館奉行村垣範正「村垣淡路守範正公務日記」
イシカリからオタルナイまでに3個所の漁場があった。オタルナイ川には橋がかかっていた。
⑦1858(安政5)年、水戸藩士生田目弥之助「安政五年生田目氏日記」
石狩場所請負人の阿部屋伝次郎が場所請負人を罷免された。
⑧1870(明治3)年、米澤藩士宮島幹「北行日記」
⑨1871(明治4)年、チャールズ・A・ロングフェロー「ロングフェロー日本滞在記」
⑩1872(明治5)年、ホーレス・ケプロン「蝦夷と江戸」
⑪1873(明治6)年、林顕三「北海誌料自叙」
石狩~銭函間は砂地で、百合(エゾスカシユリ)やはまなす他多くの草花が咲いていた。
⑫1873(明治6)年、榎本武揚「北海道巡回日記」
石狩川左岸地区海浜のうつりかわり
・砂浜が今より広く続いていた昭和の始め頃の海水浴場の様子
・昭和30年代から50年代にかけて、おたね浜や石狩川河口左岸地区で砂の採取が盛んに行われるようになり、昭和42年には、おたね浜での海砂採取について採取区域の限定や数量の規制を願う陳情書が道や開発局へ提出された。
・昭和38年6月23日の新聞に、香料の原料としてハマナスの花弁が過度に採取されるのを防ぐ為に町が採取禁止区域を設けた記事が掲載されている。
詳しい資料に基づいた以上のようなお話を聴いて、江戸時代からの石狩海浜地域のうつりかわりが良くわかりました。特に「資料の中のちょっとした記述から歴史が読み取れるのです」と云う言葉は、大変示唆に富むものでした。また、お話の中で、樽川の地名の由来なども知る事ができました。次回は、その石狩海浜地域がどのようにして守られてきたか、と云うお話です。