5月24日(土)講座5「村山耀一さんと歩く『石狩歴史散歩』」の第1回「略年表を追って分かる石狩のあゆみ」を石狩市民図書館で行いました。講師は、石狩市郷土研究会会長で場所請負人村山家子孫の村山耀一さんで、受講者は39名でした。
最初に司会者から村山さんの紹介がありました。村山家は、江戸時代後期に「場所請負人」として蝦夷地全体で活躍し、3代目の村山伝兵衛は「石狩弁天社」を再興し管理してきており、村山家は石狩の創立と深い関係を持ってきた。本日の講師の村山さんはその村山本家の10代目にあたるとのことです。
冒頭村山さんから、石狩歴史散歩の講座はいしかり市民カレッジの講座の前身の学びのスタンプから行ってきておりこれまで7回ほどになる。所属する石狩市郷土研究会では今迄に4冊の碑(いしぶみ)の本を発行してきた。現在、研究会では浜益の調査研究をしており、来年暮れには本を発行したいとのこと。また、7年前に講座の依頼があったときからこの本の碑をもとにして話しをしてきており、その時々の参加の皆さんが必ずしも石狩の歴史を分かった状態でない方もおられ、一通り石狩の歴史をお話し現地視察をすると効果的かなと思い今回の座学となったと話しがあり、1時間30分の講義が始まりました。
◎石狩川
講義の最初は、石狩川についてです。石狩市は石狩川あっての石狩であり、長い歴史は川と共に生き川と共に歩んで行かなければならないと話された。石狩川の源流は大雪山系石狩岳となっており、今回はこの川の説明をしながら石狩の歴史を学んで行きたいと話されました。
本日の資料の表紙に外輪船を載せたが、明治時代に北海道内陸部の開拓に石狩川は輸送の大動脈として活躍し貢献してきたとの意味で、表紙に使ったとのことでした。
さて石狩川ですが、石狩市民憲章でも『母なる川に鮭がのぼる石狩』、『石狩市はサケとニシンの文化に象徴される歴史あるまち』とうたわれているように、石狩平野の生みの親と位置づけられており、平成13年には北海道遺産に指定されています。
石狩岳を源流とする川は、途中の幾つかの川と合流して石狩にきている。かっては自由蛇行をを繰り返す河川であったことから氾濫を繰り返し、その防止のため大正6年以来捷水路工事により直線化され約100kmも短縮され現在は268kmとのことです。石狩の語源は、アイヌ語の『イ・シカラ・ベツ』
(非常に曲がりくねった川)で、蛇行する姿を表現したとのことです。
江戸前期の石狩川流域は、アイヌ民族が本拠地として、その支配は南はオタルナイ(小樽)から北はマシケ(増毛)方面までおよんでいたとのこと。その後アイヌと和人との戦もあり、江戸時代後期には石狩川下流部とその支流にサケ漁のため松前藩主直領の「場所」がおかれ、特に場所請負人の阿部屋村山伝兵衛は文化12年(1815)に石狩13場所を一括請け負う。明治2年(1869)には蝦夷地は北海道と改名され開拓使が設置された。
現在の石狩川は、上川地方・空知地方・石狩地方の22の市町村を通過しており、流域市町村の人口は約308万8千人(平成12年国勢調査)が生活し、自然豊かな肥沃な大地へと発展をとげ、流域は札幌を中心に北海道の政治・経済・文化の中枢を担っているとのことです。
◎石狩市の略歴
続いて、石狩市の略歴について話をされました。1万1千年前に氷河期が終わり温暖な時期に海水面が上昇し江別のあたりまで海水が入り込み「古石狩湾」が誕生する。しかし、7千年前頃から海水面が下がり「古石狩湾」は埋まってしまう。6千年前頃には紅葉山砂丘が誕生し、縄文人の生活が始まったとのことです。2千年前には「紅葉山33号遺跡」に見る生活があり、この遺跡からは32基の墓が発見されているとのこと。1千年前頃からは石狩砂丘ができはじめ、浜益にある岡島洞窟には擦文式土器が見つかっているとのことです。
さて、古代の歴史から有史の鎌倉時代になると、アイヌ文化が成立してきたと考えられている。享徳3年(1454)には、東北の南部氏から追われた安藤政孝が武田信広らと蝦夷地に入り12の館を配置する。武田信広(後の蠣崎信広)は、コシャマインを破りアイヌを鎮圧したが、以後アイヌの蜂起が断続的にあったとのことです。
・松前藩領時代
文禄2年(1593)蠣崎信広は、豊臣秀吉から「朱印状」を受け蝦夷島王となる。同じく慶長9年(1604)蠣崎慶広が徳川家康から黒印状をもらい蝦夷地支配のお墨付きを得ることになる。この頃、松前藩は商いの場として石狩場所を開設する。石狩は松前藩の直轄地として重要視される。松前藩はアイヌと交易しそれを松前に持ってきて商人と交換していた。しかし、武士の商売ではうまくいかず、商人に任せるようになった。それが1700年代に出てくる「場所請負」制で、この場所請負には多くの商人がかかわってきたが、このなかに初代村山伝兵衛がおり、石狩川流域の場所を請け負うこととなった。
・幕府直轄時代
この地図に見るように黒い転々が松前藩の各藩士の場所で、函館あたりの黒い部分が和人地で松前の中心であったとのことです。
文化12年(1815)には、6代目村山伝兵衛が石狩川流域の全場所(石狩13場所)を一括請け負うこととなった。また、村山伝兵衛は翌年、石狩弁天社を再興したとのことです。
1800年代になるとロシアが南下政策を取り始めたことから、幕府は蝦夷地全体を守らなくてはと函館にあった奉行所を拡大して中心部に持っていくこととし、石狩13場所へ幕府の中心を持って行くことにした。近藤重蔵や松浦武四郎がこのため石狩の調査に入り、この石狩をそのような地域にすることを提唱した。
安政2年(1855)幕府は請負人制を止め石狩役所を設置した。その持ち場は積丹から増毛までとなり、サッポロも支配下となる。講義では、28日に訪ねる浜益の開拓の話しもありました。浜益の開拓にあたった庄内藩は戊辰戦争のときに引き上げてしまったとのことですが、その遺跡が残っているとのことです。
・蝦夷地から北海道へ
戊辰戦争、函館戦争も終わって北海道は開拓使の時代となる。明治2年に開拓使が設置され、「蝦夷地」から「北海道」となり、道内に11の国が設置され86郡に区分された。石狩郡は、明治4年に戸籍法制定により石狩町と命名され、舟場町、親船町、横町、弁天町、本朝、仲町、新町、浜町、八幡町、若生町の10町に区分されたとのことです。
・内陸部開拓の始まり
明治9年には石狩本町地区で大火災があった。この年クラーク博士が石狩に来て缶詰を試作する。10年には缶詰所が操業を開始した。20年には小樽内川、琴似川間大排水(今の新川)が竣工。25年には石狩灯台が点灯される。当時の灯台は6角形で木造であったとのこと。
明治33年以降には酪農も始まる。35年には2級町村制が施行され、十町と生振で石狩町が、花畔村と樽川村が合併し花川村ができる。40年には1級町村制施行で石狩町と花川村が合併する。昭和4年には砂地水田が成功する。
・団地造成のはじまり
昭和35年頃から我が国のエネルギー革命が進み石炭から石油の時代となる。北海道で炭鉱の閉山が続き、石狩でも団地造成が始まった。昭和40年には新札幌団地(現花川南の一部)の分譲が始まり、昭和48年には北方面でも北海道住宅公社による分譲が始まった。
・石狩湾新港開発のはじまり
昭和48年には石狩湾新港が重要港湾に指定され、着工が始まった。昭和57年には第1船が入港した。
現在新港地域には、北ガスのLNG基地、北電の天然ガス発電、さくらインターネットの進出もあり、期待が持てる新港となった。
以上の様に村山さんは、講義資料とは別に沢山の写真などを用意され分かりやすく話をされ、受講生の皆さんは2回目3回目の碑の現地視察に期待を膨らませて散会しました。