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講座9 『北の人物伝Ⅲ~北海道の歴史を彩った人々』

「松浦武四郎『蝦夷通』と呼ばれた旅人~松浦武四郎の生涯」

2014/10/24

 10月21日(火)、講座9『北の人物伝Ⅲ~北海道の歴史を彩った人々』の第2回「松浦武四郎『蝦夷通』と呼ばれた旅人~松浦武四郎の生涯」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道開拓記念館学芸員の三浦泰之さん、受講者は57人でした。

 三浦さんは最初に、松浦武四郎の生涯を理解するためのキーワードとして①旅 ②旺盛な好奇心と知的・学問的・思想的欲求 ③情報の"収集"と"発信" ④幅広い交友関係 ⑤強烈な個性(例えば"自己顕示")⑥幕末維新期という時代背景、の6つをあげて、お話を始められました。
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 以下は、そのお話の概要です。
青年期の諸国放浪
◇生年
文化15(1818)年、伊勢国一志郡須川村(現三重県松阪市小野江町)に生まれる。
◇青年期の諸国放浪
・16歳時の2度の家出を初めとして諸国を放浪(立身出世を探る旅でもあった)、「四国遍路道中雑誌」「西海雑誌」など青年期から紀行文を執筆した。
・21歳で、病の快気を機に出家。
・26歳で、父母の菩提を弔うために帰省。翌年、還俗。
蝦夷地の踏査①
蝦夷地への旅を志した背景として、長崎の名主津川文作から危機的な北方情勢の話を聞いたことがあげられている。
◇1回目(28歳)
弘化2(1845)年6月~8月、箱館の商人和賀屋孫兵衛手代の名目で東蝦夷地へ。
◇2回目(29歳)
弘化3(1846)年4月~9月、松前藩医師西川春庵の僕の名目で西蝦夷地を経て北蝦夷地へ。
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◇3回目(32歳)
嘉永2(1849)年、松前の商人柏屋喜兵衛の手船で東蝦夷地クナシリ島・エトロフ島へ。
※嘉永3年冬までに、「初航」「再航」「三航」蝦夷日誌全35巻を執筆。嘉永6年8月、水戸藩徳川斉昭へ「初航」12巻を献上。
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※イシカリには2回目の踏査で訪れる。
「イシカリは西部大一番の地だが、アイヌの人口が著しく減っている、これは使用者の道理に合わない使役のせいで、つまるところ藩の政治が良くないからだ」と言っている。
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黒船来航と尊王攘夷運動
※嘉永6(1853)年の黒船来航
・ペリー率いるアメリカ艦隊、プチャーチン率いるロシア艦隊、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。
◇武四郎の工作活動
・水戸藩より朝廷工作を依頼される(孝明天皇名代公家東下の際に「国体をはづかしめざる様」の「御沙汰書」を出させること)
・武四郎は、国学の影響による尊王派ではあったが、倒幕派ではなかった。
※その後の黒船動向
・幕府による蝦夷地・北蝦夷地調査隊派遣。日米和親条約調印。日露通好条約調印(カラフトの領有についてはあいまいのまま)
◇武四郎を取り巻く状況と武四郎の動向
・ロシアとの国境画定問題から蝦夷地・北蝦夷地の事が重大関心事となり、武四郎は情報通として注目される一方、名が売れた結果松前藩に命を狙われる。
・武四郎の情報収集能力は、蝦夷地事情に限らない情報通として注目を浴びた。
・武四郎の情報入手ルートについては、旺盛な行動力、幕閣(特に目付衆)にまで及ぶ幅広い交友関係によるものと思われる。
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蝦夷地の踏査②―幕府の「御雇」として
※幕府は、箱館開港を控え、箱館とその周辺地区を上知して箱館奉行の管轄とした→武四郎の幕府仕官に対する松前藩による妨害が無意味となった。
・安政2(1855)年、幕府へ「初航」「再航」「三航」蝦夷日誌全35巻を献上。幕府の派遣で箱館へ。
◇4回目踏査(39歳)
安政3(1856)年3月~10月。箱館奉行所組頭向山源太夫の手付として、主に東・西蝦夷地の沿岸部と北蝦夷地へ。
◇5回目(40歳)
安政4(1857)年4月~8月。蝦夷地一円山川地理等取調方の御用として、主に西蝦夷地へ。
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◇6回目(41歳)
安政5(1858)年1月~8月。蝦夷地一円山川地理等取調方の御用として、東・西蝦夷地へ。
※イシカリには、4回目~6回目のいずれにも訪れている。
江戸における出版活動と情報の発信
◇幕末期の武四郎の動向とエピソード
・幕府「雇」を辞任。
・江戸で出版活動、情報の収集発信を行う。
・文久年間頃、出版物が「多気志楼物」として流行。
・「浪士組」の初期候補者リストに載る。
・諸藩から蝦夷地関係の相談。
新政府への登用
・明治元(1868)年から明治3年まで、「徴士箱館府判府事」「蝦夷地御用係」「開拓判官」等に就任。
・道名(北海道)・国名・郡名の選定案を提出。
・明治3(1870)年、辞表提出。「開拓判官」を罷免、開拓への貢献で「終身十五任扶持」を授かる。
・辞職後、「馬角斎」と云う雅号を用いる。
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晩年の旅―信仰と古物への関心
・晩年も各地を旅した。
・好古家―強烈な収集癖から"乞食松浦"と云う悪評。
最晩年
◇「武四郎涅槃図」
河鍋暁斎作。一部に武四郎の収集品の図像を描かせた変わり涅槃図。
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◇一畳の書斎「一畳敷」を建築
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明治21(1888)年2月10日、永眠(71歳)

 お話は以上ですが三浦さんは最後に「武四郎は、晩年の好古家活動も含めて、情報の収集と発信をし続けた人物でした。また、強烈な個性にも関わらず幅広い交友関係を構築出来たのは、単に有用な人物と云う実利面からばかりでなく好かれる人にはとことん好かれると云う様な不思議な人間的魅力を備えていたからではないでしょうか。その生涯は一言で言い表わせない魅力に溢れています。いま以上に全国的な知名度を得ても良い人物であると考えています」と結ばれました。

 松浦武四郎と云えば、蝦夷地の探検家、北海道の名付け親、と云うイメージが強いですが、お話を聴いてもっと幅の広い活動をした魅力溢れる人物であることが良く分かり、大変興味深い講座でした。





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