1月20日(火)、講座15 『これからの教育の動向』~教育の機会保障の歴史を通して考える~の第1回「教育の機会保障の歴史」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道教育大学札幌校・教授の三上敦史さん、受講者は22名でした。
三上さんは先ず「お見受けしたところ戦前の教育を受けられた方はいらっしゃらないようですが、今日は近代日本の教育制度がどのようにして現在のような形になったかをお話したいと思います」と言って講座を始められました。
最初に紹介されたのは、福沢諭吉の「学問のすすめ」(明治4年初版)
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と云う言葉は人口に膾炙しているが、要旨では「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」と言っている。
1.明治初期
明治5年に近代日本で初めて学校の仕組みを整える「学制」が定められ、さらに明治12年に「教育令」が公布された。
・日本の教育の仕組みは、理念としては当初から機会均等と云うことで始まった。
・「教育令」では、小学校は、初等科(3年、義務教育)中等科(3年)高等科(2年)の編成で、一方小学校中等科から進む中学校(初等中学4年、高等中学2年)があった。大学も作られたが、小学校から大学へとつながる仕組みはなかった(これは、当時の大学の先生は外国人だったので、どこかで外国語を習得する必要があったため)
2.明治~大正期
明治19年、森有礼の「学校令」が公布(小学校令・中学校令・帝国大学令・師範学校令)
・これにより、小学校から大学へのコースが初めてつながった。
・義務教育は、尋常小学校6年間(1割がここで終わる)。それに続き高等小学校2年(8割がここまで)
・別ルートで、尋常小学校から進む中学校と高等女学校があり、高等小学校から進む師範学校と(甲種)実業学校があった。
中学校(男子のみ)、高等女学校(女子のみ)、師範学校、(甲種)実業学校を中等学校と云い、1割がこちらへ進んだ。
・中学校からのみ大学へ進むことが出来た。
・貧しい子弟の進む道は
①師範学校(学費無料、全寮制無料、教科書・制服支給)
②文部省の学校以外に鉄道省(鉄道局教習所・鉄道省教習所)や逓信省(逓信講習所・逓信官吏練習所)の学校があり、給料を貰いながら学ぶことが出来た。鉄道局教習所の3年間の課程では、中等学校以上の一般科目を学び、中学校卒業者と同等に待遇された。さらに、鉄道省教習所普通部(2年)高等部(2年)があり大学並みに学ぶこともできた。
鉄道省教習所や逓信官吏練習所出身者は、高文行政科(現在の国家公務員総合職に相当)へも、一般大学と並んで多数合格している。
また、軍隊にはこれ以上の学校が整備されていた。
現在の定時制学校のような学校(札幌遠友夜学校など)もあったが、学歴は取得できず、検定試験が必要だった。
③さまざまな学歴に対応した検定・採用試験があり、仕事をしながら学ぶ道があった。
・教員になって(資格がなくても教員になれた)昼間は教え、勉強して小学校尋常科准教員→小学校准教員→小学校尋常科正教員→小学校本科正教員→小学校専科正教員などの資格を取る方法があった。
・普通文官(公務員)では、傭人採用試験、雇員採用試験があり雇員採用試験に合格すれば正式な役人ではないが、停年まで雇用された。正式な役人となるには、普通文官試験の合格が必要だった。
自分で勉強するための教材としては、中学校の教科を掲載した「中学講義録」があった。
・学校の系統を一覧表にした受験界と云う受験雑誌の付録は、正規の学校へ行けない子弟の進路をまとめており、またこのような商業誌の存在は、将来を目指して勉強していた子弟が多くいたことを示している。
3.戦後期
・義務教育は9年。
・文部省所管外の学校の廃止。
・非正規学校を高等学校に集約。
まとめ
近代日本の教育の機会保障は
・明治期は、小学校の普及が計られた。
・大正期は、文部省所管外学校の存在や非正規学校生は講義録などで勉強して検定試験を受けるしくみがあった。
・戦後期は、非正規の学びが正規の学校に集約された。貧しい子弟に対しては、奨学金のしくみが整備された。
大正期までは、ヨーロッパ型、戦後はアメリカ型のしくみとなった。
◇現在では、現在の教育のしくみを根幹で支えてきた奨学金の制度が弱体化し、機会均等のしくみが取り払われる傾向がある。また、都市部で中・高一貫学校の設立が進むなど中学校と高校との境が薄くなりつつある。
以上が本日の本日のお話の概要ですが、大変分かりやすい説明で、近代日本の教育の機会保障のしくみが良く分かりました。
第2回は次週1月27日(火)、「どの子も排除しない教育を目指して」と題して北海道教育大学札幌校・准教授の粟野正紀さんのお話です。