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まちの先生企画講座4 『地図の世界は無限大』

第2回 「まちの歴史は地図にきけ」

2015/02/08

  平成17年1月26日(月)まちの先生企画講座4『地図の世界は無限大』の第2回「まちの歴史は地図にきけ」を石狩市公民館第1研修室で行いました。講師は前回同様、元高校社会科(地理)教師で、現在石狩市民カレッジ運営委員の木戸口道彰さんです。受講生は27名でした。

〇最初に、今日さまざまな問題を抱える中東(西アジア)の地図を掲示し、シリア、イラク、トルコ、地中海、紅海、黒海等の位置関係、シルクロードの町として発達したアレッポ、キャラバンの休憩地で原油生産地のラッカの位置や歴史などを話され講座が始まりました。
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〇前回の講義で取り残し話しできなかった地図として、カレッジの運営委員で石狩市郷土研究会々長村山耀一さんからお借りした、札幌を中心とした正距方位図法(中心からの距離、方位が正確)地図を見ました。方位が上下左右逆で北が下に、左が東に表示されています。日本海を挟んだ対岸の大陸が意外に近くに感じられ、方位が逆だと見方が変わる、なかなか興味深い地図です。
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 次に、これも村山さんからお借りした地図ですが、戦前の昭和16年作成された日本でつくられた世界地図です。樺太、朝鮮半島、台湾、北方4島、太平洋の島々等、当時の日本の領土がはっきりと描かれています。また当時の世界の国々の位置関係がよく分かれます。当時の鉄道網、船舶航路等も書かれていて世界の交通網を理解することができ、歴史的にも貴重な世界地図です。
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 次に、ドイツ「エレべ川」と「石狩川」の流域を表した2枚の地図を比較します。エレべ川は全長1,165㎞、チェコのボヘミア盆地の水を集め、ドイツ北西部を流れ、ドイツのクックスハーフェンで北海にそそぐヨーロッパの大河です。第二次世界大戦で東進するアメリカ軍と西進するソビエト軍が出会い平和を誓った「エルベの誓い」で知られています。流域にはドレスデン、マイセン、ハンブルグなどがあります。
 一方、日本で第3の石狩川は、大雪山系石狩岳を源に268kmの大河です。空知川、夕張川、豊平川など大小約700の支流をもつ。明治時代には氾濫と洪水を繰り返す川でしたが、河川の直線化(ショートカット)などの改修やが進み、いまでは石狩川流域は日本を代表する豊かな農業地帯が広がっています。
 2枚の地図とも縦長(エルベ川182cm、石狩川145 cm)のイラストマップですが、地図表現に国柄が表れている極めて美しい地図です。
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 次に、札幌のグラフィックマップを見ましょう。この地図は、1978年(昭和53年)に発行されたもので、当時の札幌市の都心地域の建物が立体的に表現されています。建物の高さは実際のものより強調して描かれていますが、札幌市の人口が急増しているなかで、都心の建物の高層化がすすむ様子が立体的に眺められる貴重な地図です。また鳥瞰的に眺めているだけで、楽しくさせてくれる美しい地図です。
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 次に、「ベルリン」の地図を示し、ベルリンの壁の歴史などについて、木戸口さんが40数年前に東ベルリンを訪れた際の経験を交えて話されました。大戦前、ベルリンはヨーロッパ最大級の大都市であったが、第2次世界大戦でドイツが降伏、ベルリンは米、英、仏、ソ連に分割占領され、米、英、仏の占領地域の西ベルリンは周囲を東ドイツに囲まれる「赤い海に浮かぶ自由の島」となった。豊かで自由な西側に逃げようとする東ベルリン市民の流出に危機感を抱いたソ連と東ドイツは住民流出を防ぐため壁を建設しました。これが「ベルリンの壁」です。壁を越え脱出しようとして殺された東ドイツ市民の犠牲者は130人以上といわれる。1961年に建設され、1989年に破壊された。1990年に東西ドイツが統一されるまで、この壁が、ドイツ分断や冷戦の象徴となっていました。
 木戸口さんが行かれた1976年当時の東ベルリンは、終戦から30年ほどたっていましたが夜の明かりも少なく、レストランで出されたフォークやナイフは粗悪な素材であった。書店を覗くと思想関係の本一色で埋まっていたのが、いまでも記憶に残っているそうです。
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土地利用図(2万5千分の1)
国土地理院発行の主題図の一つで、その土地の様々な利用のされ方を多色刷りして示した地図。内容の基本は2万5千分の1の地形図で、鮮やかな色分けで、記号、注記を読み分けなくても土地の利用状況が解るように編集されている美しい地図です。土地利用図は昭和52年~56年にかけて主要な都市だけを作成されました。北海道では釧路、帯広、十勝、石狩、函館、苫小牧、空知等の各地域が発行されています。
 札幌北部の土地利用図を見て、石狩市の花畔団地、花川南団地、花畔、樽川、屯田など時代とともに推移する形を現在の姿と見比べました。
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 函館・五稜郭の土地利用図は姿、地図の配置、色彩が豊かで見ていて大変楽しい地図です。水色に見えるのが工場地域、茶色は学校、赤は市街地、緑は五稜郭公園と土地利用が一目瞭然、はっきりとわかります。
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  同じく、土地利用図で余市町を眺めてみました。いま余市町は、NHK朝の連続ドラマ「マッサン」の舞台として関心を集めているまちです。地図を見ると、町の中心を南北に流れる余市川の右岸、JR余市駅の西側に広がる青色の地域がウイスキー工場です。工場のある地名「黒川町」は、開拓使次官の黒田清隆の黒と明治4年に入植した会津藩士宗川茂友の川をとった地名といわれています。地図からは、まちの周辺には豊かな果物畑が広がる様子も読み取れます。なお、果物栽培で有名な仁木町は余市町の南に連接し、明治12年徳島県から入植した開拓団体の代表者仁木竹吉を記念してまちの名にしたものといわれています。
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 以上、第1回の講座で残した地図の補足説明をいたしました。

 ここから、今日のテーマである第2回「まちの歴史は地図にきけ」に入りました。

地形図をつくる
地図作成には莫大な費用と時間が必要となり、民間では負担しきれないために、どこの国でも国家事業で制作されています。現在、日本では国土地理院がその事業を担っていますが、刊行している一般的な地図としては、
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 地方図としては、500万分の1、300万分の1「日本とその周辺」(各1面)と100万分の1「日本」(3面)、50万分の1「関東地方」や「九州地方」(8面)を発行しています。また、比較的広い地方を概観できる地勢図として、20万分の1(130面)、さらに、最も市民に親しまれ利用されている地形図は、5万分の1(全国1291面)、2万5千分の1(全国4342面)、1万分の1(主要都市部311面)などがあります。

〇地形図は軍事機密でした。
どこの国でも、基本的に地形図は軍事機密的な色彩が強い地図でした。戦前の発行機関が「陸軍参謀本部陸地測量部」だったことかも分かります。現在日本では、どこの地域の地形図も自由に入手できますが、国によっては、いまでも制限を受ける場合があるといわれています。例を見てみましょう。5万分の1地形図「尾幌」(昭和19年)には、参謀本部「軍事機密(戦地に限り)」と印刷されています。また、5万分の1地形図「青梅」(昭和12年修正)では貯水池(水源)は牧草地に変えられている。
1万分の1の「ドレスデン」(1984旧東ドイツ)では、特に橋梁の表現で、長さとともに、橋幅、橋高、作られている材料など、戦車などの軍事車両が通行可能か否かが明示されていたそうです。
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〇地勢図にみる地域の移り変わり
テーブルに広げられた地勢図、地形図を見ながら講師の説明が続きます。
地勢図とは、国土地理院が発行する20万分の1の地図で、都道府県程度の広さの地域の地形、水系、交通路、集落などの概観を表現した6色刷りの地図です。地形図より縮尺は小さいが広い地域の地勢、都市、交通路などが大観できる地図として広く利用されています。
ここでは、地勢図「札幌」(昭和46年、53年、平成10年、平成20年、平成25年発行)と「岩内」(昭和46年、54年、平成9年発行)を眺めながら、札幌圏と後志地域の変化を概観します。
 昭和48年発行の地勢図「札幌」、「岩内」には、現在は姿を消した夕張鉄道、国鉄万字線、国鉄幌内線、国鉄岩内線、寿都鉄道などが描かれているが、平成20年発行からはすべて姿を消しています。一方、新たに平成10年発行から石勝線が登場します。道路についても札樽自動車道開通、道央自動車道の延伸、積丹半島・国道229号の開通などの変化を読み取ることができます。さらに、平成10年発行から新千歳空港の滑走路が描かれてきます。平成9年発行「岩内」には、新たに原子力発電所が記載されています。そのほかに、石狩市や岩見沢市など平成18年(2006)以降、国がすすめた「平成の大合併」による市町村名の変更なども読み取ることができます。2枚の地勢図から、札幌圏と後志地方のさまざまな変化を概観しました。
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〇地形図にみる札幌市と石狩市の移り変わり
年代ごとの5万分の1地形図を見ながら札幌と石狩の人口の推移、その時代の出来事、街の移り変わりなどの説明がありました。
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 本日配布の講座資料の補足資料(地形図の発行年に合わせた、1890年~2010年までの札幌市と石狩市の略年表)を見ると、都市域の拡大の状況や交通網の整備、住宅団地の建設などの変化を読み取れます。

〇2万5千分の1地形図「石狩」昭和28年~昭和53年~平成9年~平成18年の石狩の地形図を比較し石狩湾新港の変化、広がる工業団地、住宅団地を比較する。また石狩湾新港の現在の状況を解説された。なお、石狩湾新港の建設計画の歴史については、講座資料巻末の資料⑤~⑨を参考にしてください。
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〇石狩川の蛇行~5万分の1地形図「砂川」(昭和23年)(平成7年)、「岩見沢」(昭和22年)
3枚の地形図を比較すると、石狩川はいかに蛇行していた河川かが分かります。この川の治水工事が本格的に始まったのは大正7年(1918)です。蛇行部分は次々とショートカットされ、全長約360kmだったものが100 km短縮されて、現在は268kmとなっています。さらに、川を直線化する目的は、石狩平野に広がる泥炭層の水抜きがありま。地下水を抜くことにより泥炭層を乾燥させ農地化しました。この地域は、いまでは北海道最大の水田地帯へと大きく変貌を遂げています。泥炭地帯から豊かな水田地帯へと変化する様子が地形図から読み取れます。

〇石狩の油田~5万分の1地形図「石狩」(昭和12年)、(昭和26年)、(昭和53年)、(平成9年)、「銭函」(昭和33年)
江戸時代末期の安政5(1858)年、箱館奉行石狩詰所の役人が、望来海岸に油の浸出をみて、山中に油田の存在を確認。その後、明治36(1903)年、横浜の石油会社が本格的に油田開発を始めます。昭和4(1929)年が石狩油田の最盛期で、年間産油量1万Kl、油井188抗、従業員250人を超えました。しかし、総埋蔵量が少なく昭和35(1960)年、58年にわたる油田の歴史が閉じられた。昭和12年の地形図にはすでに八幡町に「石油タンク」などの表示があり、昭和26年には五の沢に多くの油井を見ることができます。原油は、五の沢の油田から石狩川河畔(来札)までパイプで送油、はじめは石狩川の渡河は艀を使っていたが、昭和3(1928)年、石狩川に空中ワイヤーを張り渡河、油田から精製工場のある軽川(手稲)まで約30kmを流送していたことが分かります。昭和33年の地形図「銭函」には「石油精製工場」の表示を見ることができます。石狩油田の歴史など詳細は巻末資料④「石狩ファィル」を参照してください。
  ここで、今日の講義は終わりました。今回は、明治から今日までのさまざまな地域の地勢図や地形図を受講者が実際に手に取り、まちの移り変わりを学びました。地域の歴史を知るためには、市町村史や郷土史、年表、写真集や映画、ビデオの映像などさまざまな記録が残っていますが、地図もまた地域の歴史を伝える貴重な資料です。特に同じ縮尺の地形図を時系列で並べてみると、町の歴史が手に取るように分かります。今日の講座では、そんな体験をしました。




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