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講座2 「北の人物伝Ⅰ~北海道の歴史を彩った人々~」

第2回 「依田勉三の十勝開拓に残した種」

2015/05/11

 5月8日(金)講座2「北の人物伝Ⅰ~北海道の歴史を彩った人々~」の第2回「依田勉三の十勝開拓に残した種」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、株式会社財界さっぽろ代表取締役社長の舟本秀男さん、受講者は50名でした。

 舟本さんは「おはようございます。私は、7~8年前に40年振りに北海道へ帰って来た時、北海道の事を開拓の時代から考えてみたいと思ったのですが、それを知っている方が意外に少ないのです。そこでそれでは自分で調べてみようと思いたちました。私は歴史の研究者でも学者でもございませんが、自分なりに調べたことをお話したいと思います」と言ってお話を始められました。
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 最初に、太平洋戦争が始まる直前で食料増産が求められていた昭和16年に建立された依田勉三の銅像の紹介がありました。これは、ほとんどが失敗に帰した晩成社の事業の中で入植37年目でようやく成功した途別の水田の初穂を傍らに記念撮影した時の姿だそうです。
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 以下は、お話の概要です。

◇生い立ち
嘉永6(1853)年(ペリー来航の年)、伊豆国那賀郡大沢村の豪農の家に生まれる。
7歳で漢学塾に入る。11歳で母を、13歳で父を亡くす。18歳で上京、ワッテル塾へ入り、渡辺勝、鈴木銃太郎と知り合う。20歳で慶應義塾に入るが病気で在学は2年間のみ。

◇北海道開拓への強い思い
明治12(1879)年、いとこのりくと結婚。
ケプロン報文を読み、北海道開拓に意欲を燃やす。
明治14年(1881)、一族を挙げて北海道開拓に当たる決心をし、兄を始め全員が賛成。その心境を「ますらおが 心定めし 北の海 風ふけばふけ 浪立たば立て」と歌った。
同年8月、一人で渡道、函館、胆振、根室、十勝、日高、小樽を巡回。

◇晩成社の結成
明治15(1882)年、社長はりくの兄善六(後に兄の佐二平)で勉三は副社長。資本金5万円。渡辺勝、鈴木銃太郎も参加。
事業目的は「国から未開地1万ha(約330町歩)の無償払い下げを受け、15年間で開墾」株主や耕作者を募り、勉三と銃太郎は土地選定のために渡道。
札幌県庁で広大な十勝を知り、下帯広(オベリベリ)へ向かい、開墾予定地と定めた。
明治15年7月、十勝国河西郡字オベリベリ(下帯広)100万坪(約330町歩)の地所下付願いを提出。
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◇晩成社移民団出発
明治16(1883)年、移民団13戸27名が決定(予定数から大幅減)勉三は、乞食姿で記念写真を撮った(志が達せない時は乞食になっても帰らない)

◇開拓初年度(明治16年)
・3月、渡航補助金交付申請が却下され、全て移民の負担となる。
・5月、地所下付願書が不許可となり無願開墾となる。オベリベリに25名が到着、開墾面積は2町8反。開墾作業、種まき作業の遅れや野火の発生。
・6月~7月、干魃で発芽不良、生育不揃い、伊豆から持参の種子類は寒冷地に不向き。
・6月、「郵便局設置願い」を提出したが翌年却下。
・7月、3家族が逃亡、乞食同然で帰郷、足並みが乱れる。
・7月~9月、トノサマバッタの大発生、マラリアの流行。
・9月、初霜到来。「道路開削願」提出も翌年却下。
※当時、札幌県庁は道央部の開拓事業だけで手いっぱいで、十勝まで手を広げる余裕がなかった。

◇困窮の中のエピソード
渡辺勝が開拓の苦しさを「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」と歌ったのに対して、勉三は「開墾の始めは豚とひとつ鍋」と返した。

◇同士との別れ
明治20(1887)年、鈴木銃太郎は晩成社規則(収穫品の十分の二を納め、利子は100円につき15円)の改善を求めるが聞き入れられず9月に辞表を提出、その後渡辺勝も辞任。

◇鈴木銃太郎、渡辺勝のその後
・鈴木銃太郎(クリスチャン)
アイヌと親密交際、信頼される。アイヌの酋長の娘と結婚。西士狩開墾に専心。芽室町開拓の創始者となる。
・渡辺勝(クリスチャン)
鈴木とともに士狩村開墾後、音更町を開拓。妻カネ(鈴木の妹)は共立女学校出身で高い教養があった。移住者子弟の教育にあたった。

◇晩成社の試み
明治28年までに、馬鈴薯澱粉工場、ハム製造、養蚕、りんご栽培、製藍所、製材、ビート試作、家畜飼育、箱館での牛肉屋経営、馬牧場、木工場、亜麻栽培など事業はすべて失敗。

その後も明治44年まで、大麻栽培、肉牛から乳牛への転換でバター・練乳造り、薄板製造、シイタケ栽培、イグサ製品製造、牛肉の大和煮・牛味噌製造などを試みたが失敗。

◇晩成社の終焉
大正2(1913)年、晩成社は倒産同然に。大正4年、夫婦で掘立小屋に住む。大正5年、下帯広と売買(うりかり、帯広南東部)の農場を売却。依田兄弟以外は全員退社。

◇唯一の成功
入植後37年目の大正9(1920)年、途別の稲作が成功。

◇依田勉三の晩年
大正14(1925)年、「晩成社には何も残らん。しかし十勝野には・・・」と述懐して、死去。
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◇依田勉三の評価
・帯広市史
「十勝の産業の源流は、そのほとんどが晩成社に発している。事業としては失敗したが、後進者に指標を示した役割は極めて重要」
・井上壽(十勝地方研究所長、依田勉三研究家)
「募集した移民は自作農になれなかった。早々に逃げ帰った小作人も多い。それは果たして後進者の指標になるであろうか」と疑問を呈した。
・高倉新一郎(元北大名誉教授、元北海学園大学学長)
「理想家で着眼点があまりにも早すぎ、条件が整う前にいろいろ試み、条件が熟し始めた頃に事業を止めてしまう。その後、同じ事業が成功している例もある。一度試みてもこれを守り育てる粘り強さがなかった」

◇北海道開拓の功労者・三十七柱
北海道神宮末社開拓神社に北海道開拓功労者・三十七柱のひとりとして祭られている。これは、最初は三十六柱だったが、十勝の関係者の強い要望で依田勉三が加えられた。

 以上が本日のお話の概要ですが、依田勉三・晩成社の十勝開拓について、大変分かりやすいお話でした。
なお、舟本さんは、財界さっぽろのHPの中の社長ブログで、これまで北海道開拓に功績のあった人々についてすでに47回書かれているそうです。
さらに、先月から「先覚者を学ぶ会」として、毎月一回一人ずつ北海道開拓に寄与した先人たちを取り上げて話をされているそうで、蝦夷地が北海道と改称された1869年から数えて150年となる2018年の8月15日までこれを続けていきたい、と意欲を燃やされていました。

 









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