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講座3 「村山耀一さんと歩く『石狩歴史散歩』」

第1回 「石狩の歴史のはじまり『本町』地区の碑と歴史の痕跡を訪ねて」

2015/06/15

 6月13日(土)、講座3「村山耀一さんと歩く『石狩歴史散歩』」の第1回「石狩の歴史のはじまり『本町』地区の碑の歴史と痕跡を訪ねて」を行いました。講師は、石狩市郷土史研究会会長の村山耀一さん、受講者は27名でした。

 石狩市公民館に集まった受講者はバスに乗り込み、講師の村山さんから「今回の講座のポイントは、石狩小学校の円形校舎と尚古社の吉田松陰の書、そして弁天通りにある寺社と、その境内の重要な碑を通して、道央で最も古い歴史を持つ石狩の歴史やその痕跡を学ぶことです」との説明を受けて出発しました。
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 はじめに、北海道新聞(6月10日)で紹介された「『寒塩引』A級グルメに」の記事について触れられました。蝦夷地と鮭の関わり、北前船と塩の移入、村山家との関わり。そして、今後については、石狩市や観光協会では、高級グルメの石狩のブランドとして、インターネットなどで全国へ発信していくことを考えているようです、と解説されました。
また、本町地区の入るところに親船墓地がありますが、なぜ町の入口にお墓があるのでしょうか。答えは、当時はここが町のはずれであったからとのこと。
また、次回との関連で、旧送油塔のあった場所を地図で確認しました。八の沢からパイプラインで送られてきた石油が高さ28mの鉄塔を立ててケーブルを引いて自然の地形の高低を利用して流したのだそうです。
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石狩小学校円形校舎 (道内最後に残る円形校舎)
 休日ですが、校長先生と教頭先生が迎えて下さいました。伊藤裕基校長先生より歴史と現況について説明をいただいた後、校内を見学して回りました。
開校は明治6年、今年で142年目。児童数は昭和33年379名がピークで、平成16年100名を切り、現在70名。円形校舎は昭和31年(1956)全国初の鉄筋コンクリー造。財政難の中で1800万円巨費を投じて建設。当時の町民の子どもに未来を託す熱い思いを感じるとのことでした。130周年募集してできたキャラクター「まなぴー」の着ぐるみは、翌日の運動会でも登場し活躍するそうです。
受講者は、自分が学んだ四角い教室と扇型の教室や職員室との違いを興味深く体験させていただいたようです。
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弁天通り(石狩川の蛇行をイメージして造られた)

長渓山 曹源寺と境内にある中嶋家の墓
 創立 文久2年(1862) 本尊 釈迦牟尼仏  堂内に秋葉尊を祀る
石狩にある4つの古いお寺の中で最も古い。石狩の中で、商売で力を尽くした長野商店や中嶋商店のお墓がある。明治9年・12年の市街地大火で類焼したが、同13年現在地に再建された。
曹源寺境内にある中嶋家の墓は、昭和20年7月のアメリカ艦載機による石狩空襲の際、棹石上部が破損した。中嶋家では、石狩空襲の証として修復せずにそのまま残している。
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石狩弁天社  石狩市指定文化財第1号(昭和24年指定)
 元禄7年(1694)松前藩家臣山下判左衛門によって「鮭の豊漁、海上安全」を祈って建てられたと伝えられている神社で、石狩場所請負人などに信仰され、特に村山家では守り神として大切にされてきた。建てた場所は今の八幡神社の辺りであったが、明治7年村山家の土地である現在地に移した。
主神は弁天様であるが、石狩川の主と伝えられる「蝶鮫」を神格化した「妙亀法鮫大明神」も祀られている。
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禮拝器  弘化2年建立  石質 蛇紋岩(茨木県産)
 茨城県境港から運ばれたもので、青っぽい色をして白い筋がはいっている。水戸光圀が海風丸を石狩に派遣して実態調査をしている。歴史上水戸と石狩との関わりの証として重要である。
隷書は水戸藩主の書
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北千島沖流網之碑 平成7年建立
 昭和8年、鰊と鮭の沿岸漁業から遠洋漁業に変って50年目を迎えるに当たって遠洋漁業の実績を讃えて建立された。
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弁天歴史公園内 レリーフ[先進たちの碑]説明盤
 市役所ロビーにあったものを平成2年(2000)移設したもので、石狩の歴史が分る仕組みになっている。現在は石狩湾新港を中心に世界に広がっている。
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鮭供養之碑 昭和43年(1952)建立
 石狩灯台付近に建立されたが平成13年(2001)現在地の歴史公園に移設された。鮭の町でありながら鮭の碑は少ない。
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井上伝蔵句碑  平成14年(2002)建立
 秩父事件の中心人物で石狩では名前を伊藤房次郎の仮称で生活していた。俳句結社「石狩尚古社」の社員でもあった。歴史公園内には、他に有馬郎人句碑や高浜年尾句碑など多くの歌人の句碑が置かれている。
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石狩尚古社資料館   平成元年(1989)開館    
 現在尚古社で公開されている「吉田松陰の書」について、尚古社館主で中嶋家4代目である中嶋勝久さんが説明して下さいました。
今から30年前、勝久さんが蔵の中から発見し、田岡市長の友人が国学院大学で研究していることから大学に送り調べていただき、松陰の新筆であることが判明したとのことです。この書は、松陰が萩の獄中で書いたものであること、別号を「ニ一回猛士」とした訳、なぜ松陰の書が中嶋家の土蔵にあったのかなどを熱っぽく語ってくださいました。
収蔵展示されている書画には、維新前後の歴史上著名な人々の書幅など貴重な資料が多数あり、無料で公開されています。
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石狩八幡神社  創立 安政5年(1858) 
 祭神名 誉田別命(ほんだわけのみこと) 倉稲魂命(うかたのみたまのみこと)
函館総社八幡宮神主菊地重賢大蔵が、末社石狩八幡宮を現八幡町に造った。明治7年、現在地に移し、稲荷大神を相殿に祀っている。
石狩八幡神社石鳥居
 もと石狩弁天社の鳥居であったが、明治7年石狩八幡神社が弁天社地内に移ったときに鳥居だけが残されたもの。上部の一部を八幡鳥居形式に改修した。白ミカゲ石造りで、右石柱の彫字に、道内最古の「秋味」の文字が見える。
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御神燈軸石 建立 大正8年(1919)
 慶応4年(明治元年)7月、明治新政府の函館府石狩役所主宰井上弥吉が、同郷の木戸孝允筆になる石燈ろうを一対、八幡神社に奉納したものの遺材。約50年間の変遷のなかで散逸していたものを三代岡村静夫社司が台座にその由来を記してこれを碑とした。
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宝珠山 金龍寺 創立 安政4年(1857) 本尊 十戒未曾有大曼荼羅
 札幌市近郊で最も古い日蓮宗のお寺であり、石狩第1号のお寺である。石狩詰め荒井金助が早世した弟の菩提を弔うために建立したものという。
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手水鉢  安政3年(1774)甲午正月 奉納 千秋丸水主中
 もともとは石狩弁天社に建立されたもので現在は金龍寺におかれている。北前船で運ばれたもので、石狩市で最も古い手水鉢であり貴重なものである。
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常行山 能量寺と境内の碑
 能量寺創立  安政5年(1858) 本尊 阿弥陀如来
3代住職 飯尾円什(昭和22年~34年まで石狩町長)。
4代目住職 飯尾円仁(石狩市議会議員 議長)
墓所には、幕末から明治にかけて重要な役割を果たした方々のお墓が残されている。
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井尻家の墓
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〆一 山田文右衛門の墓
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大谷句仏句碑  建立 昭和25年 
 昭和2・3年、北海道布教のため、能量寺を根拠地とした。その際残した句。
〈碑文〉石狩能量寺を立ち去るとて 石狩は鮭の魚飯に名残あり
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上手稲養鮭場記念碑 建立 昭和27年(1952)
 本町地区入口の旧養鮭場跡地(現市住団地)から移設。場所名を「上テイネ場所(上貞寧場所)」といっていた。この孵化場は、地下水を利用して、約二百万粒の鮭の孵化事業を開始したが、5年程で閉鎖された。
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 バスの中では、狭い本町地区に8つの町があったこと。明治35年八幡町と若生町を加えた10町が合併して石狩町となり、同時に、花畔村・樽川村・生振村が合併して花川村となったこと。更に明治40年に花川村と石狩町が合併して石狩町となったことなども説明されました。
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 心配された雨も降らず、村山さんの熱い語りと受講生の学ぶ意欲で吹き飛んでしまいました。村山さんの「石狩歴史散歩」シリーズは、何回参加しても毎回新しい発見があるようです。次回6月27日、北生振・高岡・八の沢方面です。




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