9月7日(月)、主催講座11「北の人物伝Ⅱ~北海道開拓とお雇い外国人~」の第1回「エドウィン・ダン~北海道の牧畜業のはじまり~」を行いました。案内役は、元高等学校教師でいしかり市民カレッジ運営委員の木戸口 道彰さん、受講者は33名でした。
石狩市公民館に集まり、バスに乗ってエドウィン・ダン記念館のある真駒内へ向かいました。
車中で、木戸口さんから道中の地域について説明を受けました。
・屯田三番通(東15丁目・屯田通)
かっては篠路屯田兵村のメインストリートで、第4中隊本部がおかれ240戸のうち100戸の兵屋が両側に並んでいた。また、住宅地として札幌一幅の広い通りで幅員は50mある。
・篠路屯田兵村
明治22年、主に西日本から220戸1,56人が入植。石狩川の水害をたびたび受ける自然災害の多い兵村だった。
・創成川
札幌の丁目を東西に分ける川。都心部を12㎞北進し茨戸湖に注ぐ。明治2年に大友亀太郎が元村開墾のために作った大友堀が始まり。明治13年に札幌―手宮間に鉄道が開通するまで物流に重要な役割を果たした。
・麻生町
明治23年、北海道製麻会社(後の帝国製麻)が製線工場を建設。
・豊平川
長さ76㎞で江別市対雁で石狩川に注ぐ。豊平は、アイヌ語のトイェ・ピラ(崩れた崖)に由来。札幌の中心は、この川が形成した扇状地の上にある。
・お雇い外国人
明治元年から明治22年までのお雇い外国人は、1,364人で国別ではイギリス人が最も多く626人。
開拓使のお雇い外国人は、78人でアメリカ人(48人)が最も多い。
その後は、南大橋、幌平橋、ミュンヘン大橋など豊平川にかかる橋を右手に見ながら進んで真駒内のエドウィン・ダン記念館に到着しました。
□お雇い外国人 エドウィン・ダン
エドウィン・ダン記念館では、同館の園家広子さんからダンの活動を描いた23点の油絵を前に丁寧な解説を受け、ダンの日本での業績を辿りました。
エドウィン・ダンの年賦
・嘉永元(1848)年 米国オハイオ州チリコーシで生まれる。父は大牧場主。
・慶応2(1866)年 マイアミ大学を退学、兄ジェイムスに代わり父の牧場を手伝う。
・明治6年 A.B.ケプロン(ホーレス・ケプロンの息子)の要請で、牛42頭とめん羊100頭の輸送を兼ねて日本へ赴任。
・明治8年 北海道七重官園に出張中、後に妻となる「松田つる」と知りあう。
・明治9年 東京第三官園から札幌官園に移り、真駒内牧牛場の建設に着手。その後開拓使が廃止されるまでに、牧牛場・牧羊場・養豚場などの建設と家畜飼養の試験・指導、牧草・甜菜・亜麻の栽培、西洋農具使用方法の指導など北海道農業の基礎作りに大きな貢献をした。
・明治10年 真駒内牧牛場完成(明治19年に真駒内種畜場となる)
・明治11年 新冠牧場を整備、馬産改良に努めた(それまで日本では馬を農作業に使う習慣はなかった)
200㎞の札幌~新冠間を何度も往復して指導した。牧場は、洪水やバッタの被害、野犬・狼の被害など困難が多々あったが、ダン以下職員の努力と英断で切り抜けた。
・明治15年 開拓使が廃止され、東京へ移った。
・明治16年 2月、日本政府との契約満了。日本政府から、勲五等旭日双光章を授与される。長女ヘレンを連れ、オハイオ州の故郷に帰国。
・明治17年 駐日米国公使館第2書記官として再来日。
・明治21年 つる夫人死去。後年、中山ヤマと再婚、4男をもうける。
・明治22年 参事官となる。
・明治26年 公使となる。
・明治27年 日清戦争始まる。ダンは、北京駐在のデムビー公使と共に仲介の労をとる。
・明治30年 公使を辞任。
・明治34年 石油事業を起こす。
・大正元年 三菱本社に勤務。
・昭和6年 脳溢血のため、84歳で死去。
記念館でダンのことを学んだ後、記念公園にあるエドウィン・ダン像を見学しました。峯孝制作の像は、台座が大変凝ったもので、4面にはおつるさんの姿やダンの住んだ家、後継者の町村金弥、被害を受けたバッタや狼などが彫ってあり、下部には説明書きもありました。
また、この公園は真駒内種畜場当時の釘を使わない柵で囲われており、ダンが提案した真駒内用水は今なお流れ続けていました。
エドウィン・ダンは、クラーク博士ほど著名ではありませんが、北海道農業への貢献は大変大きなもので、もっと評価されても良い人物です。なお、クラーク博士の「ボウイズ、ビー、アンビシャス」は人口に膾炙していますが、ダンも「開拓者たれ!いつの日かこの地は酪農のメッカたらむ!」と云う言葉を残しています。
エドウィン・ダンの北海道での功績
記念公園で昼食をとった後、札幌軟石の石切り場跡を公園化した石山緑地へ向かいました。
□支笏火山の贈り物 札幌軟石
札幌軟石は、4万年前の支笏カルデラ(支笏湖を形成した火山活動)で発生した大規模な火砕流の噴出物が固結して出来た凝灰岩の石材。
キメが細かく、適度な硬度を持ち、柔らかで切り出しが容易なうえ、軽く保温性が良いことから、開拓時代の主要建造物の資材として広く使われた。札幌市大通り13丁目にある札幌市資料館(旧札幌控訴院)の外壁や一部が犬山市の明治村で保存されている旧札幌郵便局などにその姿を見る事が出来る。
切り出し場の跡は、見上げるとなかなか壮大な光景です。
公園内には軟石を使用したアートも点在していますが、そのひとつ「ネガティブマウンド」で一休み。
休憩中、スタッフの高橋委員がオカリナ演奏のサプライズで参加者を楽しませてくれました。
また、反対側にある硬石が採れる硬石山(かたいしやまとも呼ばれる)も観察しました。
石山緑地見学の後は、藻岩山へ向かいました。
□自然の宝庫 藻岩山
・インカルシペが藻岩山へ
藻岩山は、アイヌ語で、インカルシペ(いつもそこに上って見張りするところ)と呼ばれていた。アイヌにとって藻岩山は、物見をする山であると同時に尊い神の山で、この山が山鳴りをすると、大吹雪がくるか恐ろしい疱瘡が流行るか、必ず何か悪いことが起こると信じられていた。一方、モイワと云う言葉は、小さな山、を意味しもともと円山を指す地名だったが、それがいつのまにか取り違えられて藻岩山のことを指すようになってしまった。
・藻岩山の誕生
約200万年前に噴出した溶岩でできた地層をその後に起きた噴火による安山岩が覆って山ができた。
・天然記念物・藻岩山
大正4年に、"原生天然保存林"に指定され、大正10年に藻岩・円山原始林として北海道で第1号の国の"史跡名勝天然記念物"に指定された。藻岩山の貴重さが見直されたのは、高名な樹木学者の米国サージェント教授が、これほど樹木の多い所は世界的にも珍しいと言及したことがきっかけ。
・藻岩山と宮部金吾
札幌農学校第2期生(同期に内村鑑三、新渡戸稲造など)で植物学者の宮部金吾は藻岩山・円山の森林保護を強く提唱した。戦後、駐留米軍による北側のスキーコース設定の際には、駐留米軍のもとへ出向いてその非を説き、被害を最小限に食いとめた。
・日本の昆虫学の発祥地、藻岩山・円山
藻岩山・円山は、札幌農学校の昆虫研究生たちの調査・採集地であり野外実習地であった。日本の昆虫学の牽引者であり日本の昆虫学を世界レベルまで発展させた松村松年(1872~1960)も藻岩山や円山をフィールドにしたと思われる。
・モイワの名がついた植物や昆虫
植物―モイワナズナ、モイワボダイジュ、モイワシャジン、モイワラン
昆虫―モイワサナエ、モイワウスバカゲロウ、モイワナガハバチ、モイワケンヒメバチ、モイワガガンボ
531mの山頂へは、もーりすカーで上りました。
頂上からは、札幌扇状地がひと目で見渡せて壮観。豊平川がいかに大きな扇状地を作ったかを実感する事が出来ました。なお、札幌の名は、アイヌ語のサッ・ホロ・ぺッ(乾燥した広い土地)に由来しています。
藻岩山を降りてからは、盤渓から福井を通って右股川と左股川が作った扇状地や札幌扇状地のメム(湧水)についてのお話を聞きながら帰路につきました。
本日は、エドウィン・ダン記念館、石山緑地、藻岩山を訪れてたくさんの事を学びましたが、最初から最後まで分かりやすく詳細な解説をして下さった木戸口さんに大いに感謝しながら解散しました。