9月30日(水)、主催講座10「石狩の自然を歩く~紅葉山砂丘~」の第2回「巡検し、現存の砂丘を見る」を行いました。講師は、いしかり砂丘の風資料館・学芸員の志賀健司さん、受講者は31名でした。
公民館からバスに乗って生振へ向かいましたが、最初に、紅葉山砂丘は約6000年前の古石狩湾の砂州であり、手稲前田から花川、生振、美登位の間を線上に分布していること、長さは約15㎞、幅は広い所で500m~1㎞、高さは平均しておよそ10mくらいで一番高いところは17.6mであることなど前回のお話で学んだことを復習しました。
そして志賀さんは、本日の巡回では、札幌側の手稲山と当別側の阿蘇岩山がどの位置にあるかを絶えず意識しながら砂丘を観察するよう注意されました。
◇茨戸
茨戸川、伏古川、発寒川が集まっているが、それは、ここが古石狩湾の内海から外海への出口であったから。
◇生振墓地
紅葉山砂丘の生振側の中ではもっとも良く地形が残っている。標高約12m。今回は行きませんでしたが、現在の石狩川の対岸(美登位)まで砂丘は切れ切れに分布している。
生振墓地の後は、砂丘が茨戸川へ接するあたりの位置を確かめられる場所へ移動。
生振側の砂丘の基盤にある礫は泥岩であることを復習して、砂丘が残る生振寺付近を通りながら緑苑台へ向かいました。
◇緑苑台
緑苑台では、まず茨戸川の西側の砂丘の先端を確認しました。
砂丘の上は周囲の湿地と異なり乾いていて人が住むには良い環境なので、紅葉山砂丘の上には遺跡が多い。緑苑台にも紅葉山51号遺跡「跡」(縄文時代中期約5000年前~4000年前)があり、土器や石器が出土した。
イオン石狩緑苑台の裏には、砂丘(標高約10m)の断面が見えて、砂層であることがよくわかる場所があり、バスを止めて観察しました。
◇屯田墓地 墓地には砂丘の地形がよく残っていて、10mから20m規模の小丘が集まった「縦列砂丘」の構造も観察する事が出来ました。
墓地の東側は自衛隊の演習地で立ち入れませんが、三角点「紅葉山」があり、砂丘の一番高いところで17.6mある。
◇紅葉山49号遺跡「跡」
車中から観察。現在は発寒川の洪水に備えた遊水地となっている。
縄文時代前期~中期(約5000年前~4000年前)、続縄文時代前期(約2000年前)、擦文時代初頭(約800年前)、江戸時代後期(約200年前)と巾広い時代の遺跡がある。1995年から2002年まで発掘調査が行われ、10万点近い遺物が出土した。
遺跡は当時の発寒川の流路を含み、河川漁の施設が多く発見された。サケ漁が行われていたと考えられている。それに関連した木製品が多数出土、その一部は、2015年に石狩市指定文化財となった。
紅葉山49号遺跡「跡」を観察した後、了恵寺脇の坂道(砂丘の跡)を通って、南防風林へ向かいました。
◇花川南防風林
最初に紅葉山33号遺跡「跡」を見学しました。
続縄文時代前半期(約2000年前)の墓が多く発見された。副葬品として、漆塗りの飾り弓が出土。
33号遺跡「跡」を見学した後、南防風林の地形を観察しました。「花畔砂堤列」についても説明がありました。
ここは、かって砂丘の南東側斜面を削るように流れていた発寒川から海側へと続く砂丘の地形が良く保存されている。
花川南防風林から手稲前田に向かいました。
◇手稲前田
手稲前田では、ちょうど紅葉山砂丘の上に乗っている道路を進んで行きました。
前田幼稚園付近で、紅葉山砂丘の地形が残っている西端を観察しました。手稲山が正面に見えます。
さらに、茨戸川から西側の砂丘の基盤が円礫である事が分かる丸い石も見つける事が出来ました。
こうして、紅葉山砂丘の東側に残る砂丘観察から始めて西へ進み、残っている砂丘の西端である手稲前田の部分まで辿って、現存している紅葉山砂丘の姿を実際に観察し、今はなくなっている部分も想像で補完して、紅葉山砂丘のつながりを理解することが出来ました。
1回目の講義、2回目の巡検と合わせて、紅葉山砂丘の事が大変良く分かりました。
受講者からもたくさんのコメントが寄せられましたので、その一部をご紹介します。
「おかげさまで知らない石狩を知ることができました。砂丘のことは何も知らなかったので、嬉しく思いました。講義内容もていねいでわかりやすかったです」
「志賀講師のわかりやすい説明で大満足です。非常に詳しく説明され紅葉山砂丘をはっきりと意識することができました」
「講義のたび新発見があり楽しく学べました。充実したフィールドワークでした」
「今回の講座は、特に、資料が分かりやすく、大変良かったです」