2015/11/03
今回浜益会場で講座を開催したのは、花川の方たちばかりでなく、厚田や浜益の方々にも講座を聴いて学んで頂きたいと云う願いからです。
花川から参加の方々は、公民館からバスで浜益会場へ向かいました。
会場には古地図などがたくさん貼られて、講座準備が周到に整えられていました。
村山さんは、「厚田、浜益についてできるだけきちんとしたお話をしたいのですが、残念ながら90分では時間が足りません。そこで、今日は、話題を絞って、細かいことは端折ってお話していきたいと思います。詳しい資料を付けておきましたので、後でじっくり読んで頂きたいと思います」と言ってお話を始められました。
「今日は主に、厚田・浜益の碑について、アツタ場所・ハママシケ場所について、西蝦夷地の交通の難所であった雄冬について、の3つにしぼってお話したいと思います」
以下はそのお話の概要です。
◇厚田・浜益の碑
これまでの調査で、旧石狩市345、厚田103、浜益102の碑を確認しているが、細かく数えればこれ以上はある。
1)厚田の代表する碑
①「厚田村発祥之碑」厚田区古潭 昭和43年建立
②「弁財船投錨地」碑 厚田区古潭 昭和43年建立 幕末から明治にかけて押琴の入江は弁財船の良港だった
③「豊漁記念碑」 厚田区古潭 明治24年建立
④「阿部屋武兵衛墓碑」厚田区古潭 天明4(1784)年建立 武兵衛は、3代目村山伝兵衛の4女の夫伊助の父親
⑤「厚田尋常小学校改築記」 厚田区厚田 明治45年建立 大漁業家佐藤松太郎が小学校改築の際1万円を寄付
⑥「伊達邦直主従北海道移住の地」碑 厚田区聚富新開地 平成8年建立 仙台藩岩出山の伊達邦直主従は聚富に入植
2)浜益の代表する碑
①「雄冬岬」 浜益区雄冬 昭和56年建立
②「山神」碑(送毛山道開鑿) 浜益区送毛 安政4(1857)年建立
③「浜益村百年」碑 浜益区浜益(きらり付近) 昭和46年建立 明治5年の戸長役場創設から100年
④「ハママシケ陣屋跡」 浜益区川下 安政6(1859)年、幕府は奥州6藩に蝦夷地警備を命令。ハママシケは、荘内藩が拝領、戊辰戦争が始まった慶応4(1868)年に引き上げ(7年間)
⑤「鳥海山 湯殿山 羽黒山」碑 浜益区川下神社境内 文久2(1862)年頃か
⑥「にしん街道」木製標柱 浜益区浜益(きらり付近) 平成20年建立 松前~稚内まで日本海沿岸に25基(平成25年)建てられている
⑦「妙薦福之碑」浜益区柏木(浜益小校庭) 明治33年建立 暴風雪で死亡した当時の黄金小・女子児童2人を慰霊
⑧「はまます郷土資料館(旧白鳥番屋)」 浜益区浜益 明治32年創設 白鳥家の番屋で昭和46年から資料館
⑨「草地改良記念碑(石狩市営群別牧場)」浜益区群別 昭和41年建立 鰊漁衰退による漁家対策で雌牛19頭を導入
⑩「馬頭観音菩」碑 浜益区川下 昭和2年建立
⑪「木村農園りんご栽培石垣」 浜益区幌 明治6年、開拓使は果樹栽培を奨励、浜益村には明治10年りんご等の苗木が配布された
⑫「浜益尋常高等小学校 旧校門」「北海道浜益高等学校 旧門柱」浜益区浜
益
⑬「手水鉢(浜益神社境内)」 浜益区浜益 明治18年建立
⑭「三十三観音(大心寺裏山)」 浜益区浜益 明治16年建立
⑮「荘内藩士墓石 二基(川下地蔵堂境内)」 浜益区川下 文久3(1863)年に死亡した藩士と足軽のもの
⑯「岡島洞窟遺跡」 浜益区浜益(国道231号沿い) 縄文文化期~擦文文化期の住居跡 オホーツク文化の日本海最南端の遺跡
⑰「閉校記念碑 心つどう地」 浜益区濃昼(旧濃昼小学校跡地) 平成3年建
立
⑱「忠魂碑」 浜益区群別(母と子の家の近く) 大正4年建立
◇アツタ場所、ハママシケ場所について
(1)アツタ場所
宝永3(1706)年、マシケ場所とともに設置
アツタは交易に不弁利で船澗が悪いため、18世紀末、運上屋がヲショロコツに置かれた
・ヲショロコツ(押琴村)
ヲショロコツ⇒アイヌ語で尻型のくぼみ 運上屋のほか弁天社、稲荷社、雇いアイヌ小屋、詰所などもあつた 安政時代にはアイヌ50人ほど出稼200人余いた
・古潭村
明治3年、開拓使厚田出張所が設置された。明治8年には郵便局が設けられた 明治13年に戸長役場が設置されるが15年に別狩村に移転、郵便局も厚田村に移転
・アツタ場所の範囲
宝永3(1706)年 ビシャンベツ(毘砂別)~シュップ(聚富)まで
天明5(1785)年 アイカップ(愛冠)手前~シュップまで
寛政2(1790)年 ゴキビル(濃昼)~シュップまで
・知行主、場所請負人
知行主は松前家家臣高橋家 宝永3(1706)年より村山伝兵衛が請負人。その後阿部屋、浜屋、万屋、浜屋(再)と続き、明治2年に場所請負制廃止
(2)ハママシケ場所(マシケ場所から分離)
宝永3(1706)年、マシケ場所設置(ルルモッペ≪留萌≫~ビシャンベツ≪毘砂別≫)
天明5(1785)年、マシケ場所は二分され、雄冬岬からビシャンベツまではハママシケ場所となり、伊達林右衛門が請負った
寛政2(1790)年、場所の区域は雄冬境~ゴキビル(濃昼)までとなった
寛政4(1792)年頃、ハママシケ、マシケ場所は一体化、ホロトマリ(現増毛)に運上屋、ハママシケに出張運上屋が設けられた
寛政8(1796)年、両場所は分離、ヘロキカルウシに運上屋が置かれた
安政4(1857)年、ハママシケ、マシケ両場所請負人の伊達林右衛門は幕府の命を受け私費で送毛山道、増毛山道を開削した
・知行主、場所請負人
知行主は、松前家家臣下国家、文化5(1822)年、知行制廃止
請負人は、宝永3(1706)年に村山伝兵衛が請負、その後明治2年の請負制廃止まで阿部屋伝吉、伊達林右衛門(73年間)、本間要助と続いた
◇雄冬岬~西蝦夷地三大難所のひとつ
ハママシケ場所とマシケ場所の間の雄冬岬は、幕末まで山道もなく、モツタ岬、神威岬と並んで西蝦夷地の三嶮岬と呼ばれ、通航する船の大難所だった。特に冬期間は北西風が吹き荒れる時化が続き、わずかな凪の時しか航行できなかった。背後の海岸はいたるところ懸崖で、激浪が打ちつけ「陸の孤島」「陸続きの孤島」と呼ばれた。このことは、最上徳内や松浦武四郎などの記録にも書かれている
◇松浦武四郎「アツタ場所記録」「ハママシケ場所記録」の一部を紹介
◇山道開削
ロシアの南下に対する蝦夷地防衛の目的が第一であった
・濃昼山道
安瀬(ヤソスケ)から濃昼まで10.5㎞。安政4(1857)年、アツタ場所請負人浜屋与三右衛門が自費339両で開削に着工、翌5年に完成
・送毛山道
送毛から毘砂別まで6㎞。マシケ場所請負人伊達林右衛門が私費で開削。安政4完成
・増毛山道
幌から別狩まで37.8㎞
伊達林右衛門が幕府に命じられ私費1,311両で安政4年に着工、翌5年に開通
以上がお話のあらましです。90分と云う短い時間でしたが、厚田、浜益の概要が大変良くまとまった分かりやすいお話で、参加された方々も熱心に聴き入っていました。
参加者からは、たくさんのコメントが寄せられましたので、その一部をご紹介します。
「三大難所などもう少しお聞きしたかった。資料を読んで勉強したいと思います。碑の保存など大切かと思います」
「村山先生の郷土に対する情熱あふれる講座でした。限られた時間の中に内容の濃い分かりやすい講義を聞くことができ大満足であり感謝しています。現地でお話を聞くことの意義深さを感じています」
「歴史に学んで現在を考え、未来を考えるということが大事だということを再認識した」
「初参加してみて、村山先生のすごさにビックリしました。又いつかお話を聞く事を楽しみにしています」
「浜益会場での開催、ありがたかったです。次回は、実際に碑を見ながらの講座をお願いしたいです」
「説き方が熱が入っていて夢中になって聞き、楽しい時間でした」