2016/04/17
お話は、昨年の3月14日から5月30日まで11回にわたり北海道新聞夕刊紙に連載された「極東 はるかなる旅人 第2部~日ロの架け橋 大黒屋光太夫」の取材に基づいたものでした。
以下は、遭難後の大黒屋光太夫の数奇な半生と光太夫についての相原さんの取材の概要です。光太夫の行動は、彼が残した旅の記録「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」に詳しく記されています。
◇相原さんの取材
・鈴鹿市には、光太夫の出航2年後に建てられたとみられる供養碑がある。
・2005年に大黒屋光太夫記念館が完成。将軍と謁見した光太夫の絵や帰国後に一時伊勢に帰郷したことを示す古文書、千石船「神昌丸」の模型などが展示されている。
・1995年10月、光太夫らの足跡を追ってカムチャッカ半島ウスチカムチャックへ。町には日露戦争後昭和初期まで操業していたに日魯漁業など日本のサケ・マス缶詰工場の残骸が多く残っていた。
・ニジニカムチャック(光太夫らはここで越冬)
今は村はなかったが、ペトロパブロフスクカムチャッキーにあるカムチャッカ郷土博物館には当時のニジニカムチャックの模型があり、壁には光太夫のイラストが描かれていた。
・2015年8月、東シベリアを流れるヤナ川の岸辺で野営
光太夫らと同様、蚊の来襲に悩まされた。また現地の人から、東シベリアの極寒の冬は、屋外では車のエンジンを切ると止まってしまい、バケツの水をぶちまけると氷の粒となって落ちてくるほどと聞かされた。
◇相原さんの取材
・ヤクーツクの国立北方民族歴史・文化博物館のエゴル館長は、光太夫の記録「北槎聞略」にある小屋付そりの絵を見て「これは今でも使われている」と語った。
・イルクーツク国立大学教授のゲルマン・メディベージェフは「光太夫の記録は、当時の市民生活を知ることができて興味深い」と語った。
・イルクーツクには、同市と鈴鹿市により建てられた光太夫にちなんだ「露日友好記念碑」(1994年完成)がある。
◇相原さんの取材
・1997年にモスクワの軍事歴史古文書館で見つかった日本地図には光太夫とラクスマンの名が記されていて二人がペテルブルクで作ったものとみられる。
・サンクトペテルブルクの人類学・民族博物館には、光太夫が残した、すずりや数珠、お盆などが展示されていた。
・2015年10月のオホーツクでの取材で、同町立郷土博物館・館長のビクトル・モロコフは「光太夫とキリルの友情はこれからも語り継がれる。日ロ両国は本来、大切な隣人なのです」と語った。
◇相原さんの取材
・小市の死を哀れんだ根室市民は、「小市慰霊碑建立有志の会」をつくり、光太夫日本帰還後200年となる1992年に墓を建てた。
・立正大学の木﨑教授は「光太夫の帰還によって日本で花開いたロシア研究の発祥の地は根室だ」と指摘している。
◇相原さんの取材
松前には、初の日ロ会談が行われたことを示す標柱などはなく、町民でこのことを知る人は少ない。一方、函館の元町公園近くにはペリー像が立っている。
◇相原さんの取材
・1986年、光太夫が1802年(帰国から10年後)に伊勢白子に里帰りしたことが記された古文書が見つかった。大黒屋光太夫記念館の代田美里学芸員は「光太夫はこの年の4月末から6月にかけて約40日間伊勢に滞在した。当時生きていたはずの母親とも再会したと思う」と語っている。
映像を交えた相原さんのお話は、運命に翻弄されながらも幾多の困難にも屈せず日ロの懸け橋となった大黒屋光太夫の半生を鮮やかに描き出してくれました。
受講者からも多くのコメントが寄せられたので、その一部をご紹介します。
「話が素晴らしかった。夢とロマンの歴史が素晴らしい。まだまだお話が聞きたかったです」
「大変分かりやすく興味深く感動的な講座でした。大黒屋光太夫の人物、歴史が生き生き伝わってきました。素晴らしいお話を聞けたと感動しています」
「現代でもシベリア横断は大変なのに江戸時代に漂流した後でエカテリーナに会った光太夫は貴重な経験をしたことを知りました。シベリア抑留や北方領土のことでロシア人には不信感がありますが、人々は良い人が多いのだと思います。資料をじっくり読んでみたいと思っています」
「大変興味深いお話でした。映像がきれい。以前"おろしや国酔夢譚"の映画を見ましたが、更に詳しく知ることができました」
「はるか昔の江戸時代のまだ交通の発達もままならぬ時に、大黒屋光太夫のような人がいたということはとても驚きでした。講師の声も大きく、とてもわかりやすく楽しかったです」