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主催講座5 「アイヌとは?その歴史~『古代』から『近世』のアイヌの歴史~」

第1回 「『古代』から『近世』のアイヌの歴史」

2016/07/12

7月7日(木)、主催講座5「アイヌとは?その歴史~『古代』から『近世』のアイヌの歴史~」の第1回「『古代』から『近世』のアイヌの歴史」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道大学大学院文学部准教授の谷本 晃久さん、受講者は60名でした。

谷本さんは、本日は限られた時間の中でアイヌの歴史についてどのような視点で考えたら良いのかと云うことを中心にお話ししたいと思います、と言って講座を始められました。
 
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◇はじめに
1)現在アイヌとして暮らしておられる人たちは2万5000人ほどとの統計がある。しかし、少数であるといって無視すべきではない。アイヌの歴史は、日本史とは別なものではなく日本史の中のアイヌ語を話しアイヌ文化を持った人達の歴史と考えるべき
2)日本列島には、3つの文化伝統がある
・日本語の2大方言・・本土方言と琉球方言
・アイヌ語の3大方言・・北海道方言、千島方言、樺太方言
・英語話者をネイティブとする島(小笠原諸島)
3)社会進化論の視点の是非
・人間を、国家を形成する伝統を持つ/持たない、文字を持つ/持たない、農耕/非農耕などにより上下、優劣をつけて考えるべきではない
・福沢諭吉は、アイヌについて本人に罪はないが遺伝的に劣り教育の甲斐はないと言っている。アイヌは、常にこう云う偏見にさらされてきた

1.時代区分の問題点
アイヌ史の時代区分は大変難しい。
開拓以前と以後で分けるのは、和人の視点での区分で馴染まない。また、古代―ヨーロッパ人との接触時代―(独立革命)近代と云う区分も、アイヌ史の場合「接触時代」が長くいつからともはっきりしないので難しい。
現在、アイヌの歴史の時代区分については、学術的にはまだ定まっていない。

2.アイヌ史はいつから
・考古学的時代区分では、旧石器、縄文、続縄文、擦文、アイヌ(13世紀~)とされ、「アイヌ文化」は13世紀以降に成立したと定義される。これは、自製土器を用いず、チャシを築き、イオマンテの執行などの文化要素から
・8世紀成立(日本書紀など)の7~8世紀の記事にアイヌ語らしき地名・人名がたくさんあるが、これは考古学編年では、「アイヌ文化」成立以前の「続縄文文化」の時代に該当する
・考古学でいう「アイヌ文化」は言語集団の持続性と合致しない
・アイヌ史にも古代はある
・蝦夷(えぞ)の意味・・髭の長い東の野蛮人
(こんな言葉の意味を知っておくのも道民の嗜みではないか、知らないで使うことで誰かを傷つけていることもある)
 
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3.アイヌ史的中世・・北へ東へ進出した時代
・考古学では、「擦文文化」/「オホーツク文化」の併存・融合⇒「アイヌ文化」の成立とされているが、むしろ中世はオホーツク文化の故地へ「アイヌ文化」が進出した(サハリン南部、千島全域へ)時代
・上ノ国勝山舘遺跡は、和人・アイヌが併存していたことを示す
・この時代の日本語の文献はほとんどないので、考古学に頼らざるを得ない

4.アイヌ史的近世
・日本に中央集権的国家ができた時代。中国では満州系の国家ができた。18世紀には、ロシアが南進
・アイヌは、南は日本、東は清朝、西はロシアと云う強力な国家に囲まれてこれらの国と本格的な付き合いをせざるを得なかった時代
・日本との関係では、当初は交易の相手であったが、あとでは労働力とされた
・半面、毛皮獣狩猟技術、非大網漁技術などアイヌに頼らなければならない物もあった
・抑圧の中でも、アットゥシや木彫などのアイヌ的意匠や蝦夷細工などの技術が洗練された
・生産性をあげるために、和人の文化とアイヌの信仰・文化を習合した漁業儀礼が作られた(鮫様など)ように、和人の文化とアイヌ文化が並立していた時代でもあった
・江戸末期にはロシアの南下で、どこまでが蝦夷か(異国境)と云うことが問題となった。西はエトロフ島とウルップ島の間、北はサハリン南部までが蝦夷の地とされ、この地域のアイヌだけが日本の民とされた(アイヌが日本の民とされた始まり)
・この時代に、私たちが現在イメージする東アジアや東南アジアの伝統社会像(チャイナ服の中国人など)が定着した。日本イメージやアイヌイメージも同様
 
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◇おわりに
北海道の人口構造
・1804年 和人3万2664人   アイヌ2万3797人
・1854年 和人6万3834人   アイヌ1万8805人
・1873年 和人10万5058人  アイヌ1万8630人(農業開拓が始まった時代)
・1900年 和人98万5000人  アイヌ1万7573人
アイヌは圧倒的なマイノリティ集団となる。急増した和人は、従来のアイヌ用益地へ。山林の多くは皇室財産・国有財産に編入。国はアイヌ用益地を無主地とみなし、「原野」設定、「殖民地」を選定し成墾和人移住者へ割譲。アイヌは、「旧土人保護」の名目で「保護地(北海道の面積の0.01%)」に住むことを強要された。また、アイヌの人々は教育し甲斐のない者として簡単なカリキュラムの日本語教育しか施されなかった。
◇その後の動き
・1992年 国連総会「世界の先住民の国際年」で北海道ウタリ協会理事長が記念演説
・1997年 「アイヌ文化振興法」成立(現在のアイヌ施策はこれに基づく)
・2007年 国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択
・2008年 衆参両院で「アイヌ民族を先住民とすることを求める決議」を全会一致で採択
・2020年 「国立アイヌ民族博物館」開館予定。その中で「わたしたちの歴史」と云うセクションを設けることになっているが、これをどのように組み立てていくのか、アイヌの歴史を日本の歴史としてどのように捉えていくのかが問われている。

 以上が本日のお話の概要ですが、アイヌの歴史は13世紀からと云われているがそれ以前にアイヌ語を話す人達がいたこと、江戸末期に外国の脅威により初めてアイヌが日本の民とされたこと、明治以降アイヌは圧倒的なマイノリティになったこと、2008年にようやく国会でアイヌの人達を先住民とする決議が採択されたこと、これからはアイヌの人達の歴史を私達の歴史として考えていかなければならないことが良く分かりました。

 次回の7月14日は、イシカリ近郊のアイヌについてのお話しです。




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