平成28年11月16日(水)主催講座14『北前船ものがたり』の第1回「北前船の誕生から衰退、そして北海道との関わり」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は元小樽市総合博物館館長で北海道北前船調査会主宰および北海道文化財保護審議会委員の土屋周三さん、受講者は58名でした。
土屋さんから冒頭「皆さん、自分の出身の都府県を知っていますか?」との質問があり、「現在北海道の小中学校児童生徒で自分の出身地を知っている人は3割以下、自分の家の歴史や文化を次世代の子ども達に是非伝えていって欲しい、そのような気持ちで北前船の話しをしたい」と述べられました。以下にその概要を紹介致します。
1. 北前船とは
①「北前船」とは、西暦1600年後期に開かれた「西廻り航路」に就航した船の呼び名で、船の形や構造ではなく、その特異な運行形態から呼ばれている船の名称である。また、大阪を起点とした「買積船」で、大阪と蝦夷(北海道)とを往来し、多くは弁財型の木造和船である。「北前船」の読み方は「キタマエブネ」あるいは「キタマエセン」のどちらでも良いが、「キタマエブネ」が一般によく使われている。
「西廻り航路」とは、寛文12(1672)年に幕府の命によって伊勢出身の豪商・河村瑞軒が開設した航路のことで、山形県最上川河口の酒田から下関を経て大阪に至る航路である。明確な地図がなかった当時、船のルートを確定していく航路開設は大変な事業であった。一方、「東廻り航路」という航路もあり、これも寛文11(1671)年に河村瑞軒が航路開設し、宮城県阿武隈川河口の荒浜から伊豆下田を経て江戸にいたる航路である。
それでは、米などの遠距離輸送になぜ船が利用されたのか、米1,000石(400俵)を陸上と海上で輸送する場合を比較する(米1俵は60kgに相当し、米を現在の「ゆめぴりか」とすると約24,000円になるだろう)。陸上で馬を使って運ぶ場合は以下に示すように莫大な費用がかかり、さらに道中の管理が非常に大変であった。当時の馬子は質が低く、馬や米が持ち逃げされることがよくあった。人員管理にかなり手を焼いたようである。
・馬1頭に米4俵(1俵4斗)を積むとすると約100頭の馬の費用
・馬子約20人から30人を雇う費用
・道中の人馬に要する食費や馬の飼料代
・人馬の宿場費用
・荷物(米)の道中管理経費
一方、海上輸送の場合は距離が長くて時間がかかるが、千石船一艘で10人から15人の船員の雇用で済み、食料は積み込むことができ、宿賃は不必要、荷物や人員の管理は容易であるというメリットがあった。
②北前船とは大阪を起点とした「買積船」で、大阪と蝦夷(北海道)とを往来した。航路は「西廻り航路」を選択し、大阪→瀬戸内海→下関→日本海→若狭湾→蝦夷・北海道の航路を片道約60日をかけて航海した。「買積船」とは、港々で売り買いして商売をしながら航海する船のことで、一航海で莫大な利益を得たと言われている。現代の話しに例えると、石狩において100万円の元手で鮭を購入、次の寄港地の小樽で鮭の半分を売って得られた現金でワインを購入、次の余市でワインと鮭を売ってウィスキーを購入するというようなものである。
北前船の持ち主が莫大な利益を得ていたことは明治30年の以下の税務署資料から窺える。呉服屋の年間所得が当時の400円(今で言うと400~600万円程度か?)であるのに対し、北前船船主である西出さんと大家さんの年間所得はそれぞれ現在の3,300~4,900万円および2億6,500万円~4億円程度にもなり、莫大な利益を得ていたことがよく判る。ちなみに、明治30年当時の教員の初任給は8円(今の8~12万円)であった。
次に、北海道ー大阪間の輸送に距離数の短い「東廻り航路」ではなく、なぜ「西廻り航路」が利用されたのかについて考える。太平洋側の「東廻り航路」には暖流と寒流がぶつかる房総沖を始めとして数々の難所があり、暴風雨などに遭うと太平洋沖合まで漂流する危険性があった。一方、日本海側の「西廻り航路」には避難できる港が多くあり、漂流しても遠くまで流されることはなかった。危険性を考えると「西廻り航路」が圧倒的に有利であった。
③北前船は弁財型の大型木造和船が多い。北海道に来る千石積みの船は一種類で、弁財船と呼ばれた。上方には樽廻船や綿番船、菱垣廻船などの大型木造和船もあった。千石積みの北前船は約150トンに相当し、下の写真にあるように1枚の帆を持ち、長さ約33m、幅約8m、高さ約27mの大きさであった。江戸時代は鎖国政策をとっていたため、海外まで行くことができないように、弱い木造の船体、船足の遅い1枚帆、積載量の少ない船しか作らせないようにしていた。
北前船が小樽港に集積している明治36(1904)年8月の写真が残されている。駆逐艦が入港するため、水路が開けられ、小さな北前船が岸寄りに寄せた。中央部を拡大すると2本の帆柱をもつ船もみられるが、これも洋式和船型の北前船である。
また、帆を干すために帆を揚げた北前船の貴重な写真も残されている。帆を揚げても船が移動しない、船がそれぞれ別の方向を向いている、長いシャッター時間でもブレていないことなどから、全くの無風状態で撮られた極めて貴重な写真であることが判る。帆中央部上方には帆印(ホジルシ)があって、遠くからでも、その印(シルシ)によって、船の所有者がわかるようになっている。帆は反物をいくつもつなぎ合わせて作られているので、帆の縦筋の数から反数および帆の大きさを知ることができる。15~20反であれば500石積み、20~25反であれば1,000石積み、25~30反であれば1,500石積みの船であることがわかる。
帆の種類としては、むしろ帆(明治中期まで)から木綿帆(反幅約3尺、寛文(1661年頃)、 木綿刺帆(刺し子で補強した木綿帆)、織り帆(反幅2.5尺)へと材質が変遷していった。
④「北前船」の呼び名は概ね能登半島以西で多く使われており、北海道では「弁財船」、東北地方では「バイ船」と呼ばれていた。文献としては「和漢船用集(全12巻)4巻『海船之部』明和3(1766)年刊」に「北国舟:加賀能登越後南部等の舟也、これを北前舟、北国舟と云、...凡1,000石以上の大舟也、...」とあり、「改正日本船路細見記、天保13(1842)年刊」には「諸国之船大阪着場所:北國路北前船」の記載がある。大阪の淀川河口に全国の船が集まった時の着場所として上記の「北國路北前船」という記載がある。一方、松前藩江差の港の規則では「秋田より上方方向から来る船は『弁財』と唱える」と書かれている。
「北前船」という呼称が全国的に使われるようになったのは、昭和61年淡路で製作された高田屋嘉兵衛の持ち船「辰悦丸」の復元船による日本海廻航事業がきっかけである。NHKを始めとした多くのメディアが「北前船」の名称を盛んに発信したため、「北前船」と呼ばれるようになった。
2. 北海道とのかかわり
松前藩時代、北前船の下り船(大阪→瀬戸内海→蝦夷地)の積み荷は松前藩で生活する武士や庶民の生活を支えるのに必要不可欠な米、酒や煙草等の嗜好品および衣類などであり、上り船(蝦夷地→大阪)では豊富な海産物、鳥獣の毛皮類および木材などであった。船主の利益としては、下り船より上り船の方が大きかった。当時の蝦夷地の人口は約55,000人で、必要な生活物資や蝦夷地の海産物等を売買して莫大な利益をあげていた。
一方、明治時代に入ると開拓移民が急増し、その生活物資や開拓のための物資が大量に運び込まれ、それらを取り扱う北前船主の利益も急増していった。北前船は前期の上り船利益が大きかった江戸時代から、それに下り船利益を上乗せする形で利益を増やした後期北前船の明治時代に進んでいった。
開拓移民の急増状態は人口推移を示す下の資料 でよくわかる。明治2年から約20年間で人口は10倍となり、明治25年から10年で2倍の約100万人となった。
最後に、北前船の衰退について述べる。明治政府は日本の近代化を図るために明治2年に従前の弁財型木造和船の建造禁止令を発し、蒸気船の導入を図った。開拓使でも明治5年に500石積以上の木造和船の建造を禁止した。明治中期には従来の弁財型和船、複数の帆柱を有する洋式和船、そして蒸気船の3種類の船が混在するようになった。
今回の講座では土屋講師から「北前船」について、非常に判りやすい、また説得性のある話しをしていただきました。1枚の古い写真の分析からいくつもの重要な情報が得られるということも教えていただきました。
受講者の感想や意見として以下のようなものがありました。
・時間が足りないぐらいでした。話しの内容は充実しており歴史の勉強になりました。
・北前船に関する考え方が変わった。わかりやすい話しで大変よかった。
・弁財船という名称の"いわれ"が面白かった。
・北前船の呼称、地域によって違う事は知らなかった。北海道では弁財船と呼んでいたことは認識したが、北海道開拓が本格化した明治以降もそうだったのか?江戸時代までなのか?
・言葉として知っていた北前船だが、その実態を殆ど知らなかったことを痛感した。とても勉強になりました。
・特に話し方に間をとり、極めて理解しやすい講演でした。永年カレッジに参加していますが数少ないトップレベルの話し方でした。幕末から明治にかける社会風俗、貨幣価値、北海道の定住人口等、大変参考になりました。感謝します。
・おもしろかった!! わかりやすくスッキリした部分も多々ありました。北前船が北海道の歴史をつくってきた動力の主要な事柄であることを改めて学べたと思います。話し振りがフランクで親しみを持て、楽しくあっという間の90分でした。米、わら、くだらない、檜山...etc etc おもしろかった!!