平成28年12月14日(水)講座14『北前船ものがたり』の第3回「石狩と北前船~石狩市の歴史に見る北前船」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は石狩市教育委員会文化財課課長・学芸員でいしかり砂丘の風資料館の工藤義衞さん、受講者は63名でした。
工藤さんは「本講座の第1回と第2回でも説明があったが、改めて『北前船とは?』について少し触れてみたい」と述べられ、講座は開始しました。
工藤さんのお話しの概要を以下に紹介致します。
北前船とは、船の形を指すものではなく、日本型船(弁財船)や洋式帆船、汽船などが該当する。北前船の主な目的は「買積」(第1回、第2回のホームページ記事を参照)であり、特定の荷主がある輸送船ではない。
1.石狩・厚田・浜益に来た北前船
江戸時代は道が整備されていなかったため物資や漁獲物の輸送は船に頼らざるを得なかった。したがって、北前船は多く利用されたが、寄港地であることの要件はサケ、ニシン等の出産物が多くあることや荷物の揚げ降ろしが容易であることなどが挙げられる。北前船そのものが着岸できなくても、小さな伝馬船を使って往復して運ぶことができれば寄港地としての要件は満たすことになる。該当する寄港地としてはイシカリ、オショロコツ、ハママシケなどがある。
厚田の寄港地であるオショロコツ(アイヌ語の地名で「人が尻餅をついてできたくぼみ」の意味をもつ;現在の押琴)は丸い湾の形をしており、波も穏やかで岸近くまで船を寄せることができたので主要な寄港地となった。明治初期の絵では運上屋や弁天社などが描かれており、別の絵では煙を出している大きな船や厚田川河口近くの小さな伝馬船も描かれている。
浜益の寄港地としてはハママシケ(浜増毛)がある。小樽の高島に停泊した弁財船から小さな船で浜益まで運んでくる場合もあった。寛政4年の絵では港と黄金山が描かれている。
石狩湊とは石狩川の河口のことで、石狩湊(いしかりみなと)のほか単にイシカリ(石狩)とも呼ばれました。イシカリは、船を陸地に直接係留でき、内陸に続く石狩川の河口に位置していたので、ほとんどの船が寄港した。松浦武四郎の西蝦夷日誌にはイシカリの絵図が描かれており、約20隻の船が岸と並行に整然と停泊している絵も残されている。場所請負制度が廃止されたのはイシカリではかなり早く安政4年のことであったが、自由化された安政5年に石狩湊に入船した船の記録が残っている(下の図)。道内では阿部屋(村山家のこと)、西川(松前)、山田文右衛門(太平洋側)、浜屋与三右衛門(厚田)および石狩役所などの手船(持ち船)や雇船が入船しており、本州では大坂、越後、庄内加茂(山形県)などから石狩湊に入ってきている。どの期間で船の数を集計したのかは不明である。
渡船場から撮った石狩最古の写真(明治4年)では、奥の方(渡船場付近?)に船が何隻も停泊しているのが見える。石狩役所の櫓(やぐら)の上から描いたと思われる明治7年の絵では煙を出している汽船が描かれている。明治36年の「石狩市街明細地図」には日本型帆船や3本マストの洋式帆船、1本煙突の汽船など様々なタイプの船が描かれている。八幡町の渡船場から本町方向をみた昭和初期の石狩川河口の絵はがきでは、川沿いに船がびっしりと停泊している。かなり大きも船が接岸しており、奥には大きな家や倉庫などが見られる。
2.北前船が運んだモノ~残されたモノから
江戸時代に北前船で運ばれたものとしては神社に奉納された物がある。例えば、越前の笏谷石でつくられた弁天社の狛犬、兵庫県の御影石でつくられた八幡神社の石鳥居などがある。大きな船では底に重いものを載せているので、これら重量物を運ぶのに全く問題がなかった。江戸時代に奉納された石狩弁天社の妙亀法鮫像や妙亀法鮫大明神の石額、銅製の鰐口などもある。鰐口は神社の軒先に掛けて参拝者が鳴らすためのもので、本州には数多くあったが北海道内ではかなりめずらしかった。江戸時代に村山伝兵衛が厚田押琴にあった弁天社にニシン豊漁を願って奉納されたものと思われる。
なお、この鰐口については、石狩市の指定文化財になったことが講座開催日(平成28年12月14日≪水≫)の北海道新聞に出ており、記事中には工藤課長からのコメントもある。全くタイミングの良い講座開催であった。
明治以降に北前船によって運ばれたものとしては焼酎徳利や清酒などがある。焼酎は幕末から明治にかけて鰊魚場に大量に運びこまれたが、容器は新潟県北部で生産された焼酎瓶(徳利)で、使用後は再利用されていた。清酒は大阪の堺や灘の酒が最も人気が高く、銘柄としては千歳、金露、千、澤亀あるいはキ印などが好まれた。山形県大山町の大山酒や道内の酒なども飲まれていた。
以上の他に、三平皿や仏像なども北前船によって運ばれてきた。北海道漁業史稿(1889(明治22)年)に「...而して其給する食物は、飯に添ふるの菜漬物及び三平汁と称する魚の塩煮或は鰊切り込み漬等なり、」とあるが、漁場で三平汁を食べる時に使ったのが三平皿である。多くは岐阜県多治見製のものが使われ、鰊魚場の食器から一般にも広がっていった。昭和初期には年間12万枚以上も運ばれてきたという記録もある。古潭の阿弥陀像や神社、神棚に残っているお札なども運ばれてきたようである。
3.北前船研究の現状
石狩の北前船研究はあまり進んでいない。その理由としては、北前船に関する史料が少ないこと、および江戸時代に石狩・厚田・浜益は場所請負制になっていて買積みの北前船は入る余地が無く研究の中心にならなかったことなどが挙げられる。
厚田村は加賀門前町(今の輪島市)と交流があったので、弁財船についても調べられていた。例えば、『厚田村史』(1969年)の第二章Ⅰには「弁財船の機能」として「弁財船の経営、弁財船の積荷、弁財船の航海、弁財船の大きさと乗組員」について記載されている。厚田村史編さんに関わる資料としては、厚田村史編纂室機関紙の「弁財船」(1965~1972)や厚田村史料室紀要(1965~1967;8号まで刊行、大部分は厚田村史に収録)、佐々木家文書~厚田村史料稿本(1967、佐々木家のふすまの裏張りから発見)などがある。厚田村史の編纂過程で確認された文書資料として「佐藤松太郎家文書」、「寺谷家文書」、「佐々木家文書」、「澤谷家文書」などもある。佐藤松太郎(1863~1918)は厚田と浜益の漁場のほとんどを所有していた実業家で、漁場で得られた利益を汽船の購入など海運業にも投資し、明治25(1892)年頃から石川県の寺谷家へ出資して北前船に関わっていたようである。また、長野徳太郎も北前船に関わっていた。「開道五十年」には「...17歳の頃より弁財船に乗組み北海道東京横浜間を航海して商を営み明治5年即ち徳太郎25歳の時乗船を止めて石狩町に店舗を構えて商営む...」の記載がある。
これからの北前船研究としては、厚田村史編纂の際に収集された文書資料の解読と分析、およびまちの成り立ちと北前船の関係などについて研究し、将来的には"北海道的な文化の成り立ちを考える"契機になれば良いと思うと結ばれ、本講座は終了しました。「石狩の歴史に見る北前船」について、資料や研究例の少ない中で苦労してまとめていただいた貴重なお話しでした。
受講者の感想や意見として以下のようなものがありました。
・興味深い内容で大変わかりやすいお話しでした。聞きごたえがあり、大変有意義な講座でした。勉強になりました。大満足!!
・やはり自分たちの生活地における北前船との関係がわかり、身近に感じられ楽しい話しでした。
・長年石狩に住みながら、ルーツ、発展の歴史に意識を持つことがなかったので、住んでいるところに愛着を持つことが出来るきっかけになるかもしれないと思いました。
・北前船の買積の内容が詳しく知ることが出来ました。ビジネスチャンスを求めて石狩に移住した人が石狩で成功したことは注目ですね。
・石狩と北前船の関係が詳しく説明されていた。石狩湊や厚田、浜益の様子が良くわかった。北前船が運んだ物の内容等、とても勉強になった。特に厚田村史について興味があった。
・多くの資料から遺産継承のための資料の解読や分析をして講義をしていただき有難うございました。今後も厚田、浜益も含めた膨大な資料をまとめて下さることを期待しています。
・三平皿(三平汁)のルーツがよくわかりました。また、人物像も詳しく知りました。
・第1回、第2回、第3回と勉強させていただき大変有難うございました。北前船を通して人の流れ、物の流れを知る事ができました。歴史と文化をもっともっと知る事が大事だと思います。
・今回の「北前船ものがたり」の全3回の企画は講師の顔ぶれ、テーマの選定、内容とも非常に満足するものでありました。次年度は是非バスツアーで北前船の跡を訪ねていけたらさらにグレードアップすると思います。「北前船」はまだ深めて下さい。