平成29年2月12日(日)主催講座16『おもしろ石狩大百科~しかり人物語』の第1回「前半/村山伝兵衛~石狩を拓いた『北海道拓殖功労者』;後半/金子清一郎~花畔開拓の功労者」を花川北コミュニティセンターで行いました。今回の主催講座16では新しい試みとして講師全てをいしかり市民カレッジのスタッフ(運営委員)が担当し、各回2人の人物を取り上げそれぞれ40分ずつ講座を行うこととしました。第1回目前半の講師は村山耀一氏、後半は石井滋朗氏が担当し40分ずつの講座を行いました。受講者は64名でした。
前半は村山家直系の子孫で10代目当主に当たる村山耀一さんが担当し、祖先の村山伝兵衛について話されました。以下にお話しの概要を紹介します。
1.北海道開拓神社に祀られる開拓功労者
村山家には300年以上の歴史があり、大正4年11月10日に京都御所で行われた大正天皇の即位礼の時には北海道開拓の功労者として従五位が贈られ、菊の御紋が入った皿が授けられた(写真参照)。また、大正7(1918)年7月15日に行われた開道50年記念式典では開拓功労者130人の一人として表彰され、昭和13(1938)年8月15日に開道70年記念式典が行われた際に創立された北海道開拓神社(現北海道神宮の境内)には「北海道開拓に心血を注ぎ、偉大な業績を果たした功労者36柱(現在は37柱)」として、間宮林蔵や松浦武四郎、黒田清隆などと並んで祀られた。
2.松前藩時代の豪商村山家の概要
村山伝兵衛は江戸時代の長者番付で「西の鴻池善右衛門、東の村山伝兵衛」と並び称されたほどの豪商であった。大きな業績を上げた初代、三代目、六代目および七代目の活動を中心に概要を以下にまとめる。
(1)初代 伝兵衛
初代の伝兵衛は能登国羽咋郡安部屋(あぶや;石川県志賀町)で生まれ、元禄13(1700)年18歳の頃に松前に渡って城下で商業活動を開始した。その後古谷勘左衛門の娘れんの養子となって城下に籍を持ち、藩御用の廻船業を営んだ。安永3(1706)年からは西蝦夷地の石狩地方場所、宗谷・留萌場所を請け負った。
伝兵衛は5艘の船を所有していたが、十数年後には26~7艘の手船(持ち船)を持つまでに発展した。アイヌに対しては漁網の製法やナマコ曳具の使用法を教えて漁獲量の増加に努め、村山家の基礎をつくった。
(2)三代目 伝兵衛
宝暦7(1757)年、21歳で家督を相続し、祖父が築いた廻船業を基礎に石狩・しゃっほろ・マシケ・ハママシケ・アツタ場所や他の藩主・有力家臣の商場の経営を請負い、有力請負人として急成長した。安永年間に苗字帯刀を許され、天明2(1782)年には町奉行兼町年寄りとなった。以下は主な業績である。
①カラフト場所漁業調査~安永2(1773)年、松前藩からカラフト漁場の調査を命じられ、船2艘を造り通訳・番人、松前藩士10数人と共にアイヌ人のための米、酒、煙草、雑貨類を満載して調査に向かった。現地ではアイヌの人々に漁法を教えたりした。伝兵衛はカラフト漁場調査の功によって松前家13世藩主通広から蝦夷錦(以下の写真)を賜った。これは祖父の菩提寺安部屋村の西念寺に"七条の袈裟"として寄進された。
②クナシリ・メナシの戦い~寛政元年(1773)5月、国後島と知床半島の目梨地方でアイヌの騒動が起こった。松前藩はこの対策のため、飛騨屋の請負場所の厚岸などの4場所を取り上げて藩直営とし、実際の差配を伝兵衛に請負わせた。松前藩が東部アイヌの人々に支援物資の緊急輸送を伝兵衛に依頼した時には素早く行動し、自らの請負場所から番人やアイヌの人々数百人を呼び寄せ、米などの生活物資を厚岸以東と宗谷方面の二方向に輸送させた。また、これとは別に幾多の困難を乗り越えて東蝦夷地に必要品を輸送するなどの努力が功を奏し、まもなく騒動は平定した。それらの功績によって伝兵衛は問屋株を取得し、城下筆頭の豪商の地位を確立した。
③カラフト場所の独立~寛政2(1790)年、松前藩は藩士をカラフトに派遣して再調査することとなり、伝兵衛は持ち船を提供した。これにより、カラフトに交易所や番屋、後には運上屋を置き、藩主直営の名のもとに場所請負を伝兵衛に命じた。間宮林蔵が間宮海峡を発見したのは文化6(1809)年であり、伝兵衛がカラフトで活躍したのはその20年前のことであった。
④村山伝兵衛が請け負ったのは35場所~伝兵衛が55歳までに経営した漁場は35場所にも及んだ(下の図参照)。この頃の伝兵衛の持ち船は102艘、松前藩への運上金(税金のようなもの)は1年で2500両(今の約1億5千万円)、米にして1万石に近く、禄高1万石の大名に相当した。
⑤ラックスマン一行受入れ費用の負担~寛政4(1792)年にロシアの遣日使節アダム・ラックスマン一行が伊勢の漂流民で船頭の大黒屋光太夫らを伴ってエカテリーナ号で根室に来た際、村山伝兵衛は滞在費用全てを負担した。
(3)六代目伝兵衛(直之)
文化2(1805)年三代目伝兵衛隠居の後を実質的に継いだのが孫の六代目伝兵衛(直之)である。祖父に続いて再び問屋株を得て有力商人としての地位を保った。文化8(1811)年には伊達、栖原および石狩場所を請負い、文化12(1815)年には石狩十三場所を一括請負った(下の図参照)。それを祝って村山家では石狩弁天社を再興し守り神とした。文政4(1821)年頃、村山家は「砂浜に適している」と、銭函から石狩河口にかけてホッキ貝を散布、移植した。現在のホッキ貝の漁業に生きている。
3.幕末期の村山家
弘化2(1845)年石狩川が氾濫して堤防が破壊された時に、村山伝次郎は越後から治水に長じた者10名を雇い10年をかけて修築に当った。「石狩川治水」の始まりとされている。安政元(1854)年まで石狩川渡船を請負い、安政2(1855)年までに石狩―札幌間と石狩―銭函間の新道の開削、安政5(1858)年には星置―島松間の道路の開削を行った。これによって銭函―札幌―千歳間の札幌越えの道路が開かれることとなった。
(4)七代目 金八郎(直栄)
安政5(1858)年、「石狩改革」により、石狩場所請負が箱館奉行の直捌(じきさばき)となった。金八郎は出稼ぎの名をもって数カ所の鮭漁場を経営し、通行人取扱やその他用達を命ぜられ、明治維新に至った。その後、経営不振が続き村山名義で鮭場所を貸したこともあったが、分家(村山家漁業部)村山伝次郎を支配人として石狩場所を継続し、明治期の石狩町の大漁業家として大いに貢献した。
明治41(1908)年鮭漁の激減などにより村山家は石狩より小樽に移転し、商人、漁業家としての歴史は終わった。
後半の講師は石井滋朗さんです。冒頭「金子清一郎について知っている人はいますか?」と尋ねられたところ、数名の手が上がるのみでした。あまり知られていないが花畔開拓に大変功労のあった金子清一郎について、人となりを石井さんが解説されました。以下にお話しの概要を紹介します。
明治初期、南防風林の北側一帯は「花畔」、南側が「樽川」となっていたので、「花畔」は今の花畔よりもっと広かったことになる。明治35年に「花畔村」と「樽川村」が合併し、両者の1字ずつを取って「花川村」という地名になり、花川村は明治40年に石狩町と合併して石狩町となり花川の名はなくなったが、今の花川の由来となっている。
花畔の開拓については、明治4年3月に岩手から20戸、同年5月に39戸129人が入植して開拓を行った。南部団体と言われていた「募移民」であるが、旅費や家作料(住居費で5両)、農具、家具、開墾手当および一定期間の食料などが開拓使から支給され、大変恵まれた状況であった。その後、募移民の制度は明治8年に廃止となり、屯田兵の形に移って行った。
金子清一郎については、初代金子清一郎と二代目金子清一郎が残したおよそ1,600点の文書群、いわゆる「金子家文書」から知ることができる。これらの文書は村山耀一さんが読み解かれて活字化されている。金子家文書には、北越時代・入植後の村民契約や村会規約、防風林・道路・排水路設置など開拓に関する文書など多数が含まれている。これらの文書は平成10年に子孫の金子仲久氏から石狩市に寄贈された。なお、「村民契約」「防風林保護規約」「(花畔村会議)記録」など10点は平成11年に石狩市指定文化財第5号に指定されている。
金子清一郎の生い立ち~天保13(1842)年、北越後長岡藩瓜生村(現新潟県長岡市)の庄屋の家に生まれた。清一郎は越後の勤皇組織「方義隊(後の居之隊)」の創設メンバーで北越戊辰戦争において官軍を先導した儒者・高橋竹之介から多くの影響を受け、自身も戊辰戦争で官軍に加わった。また、野幌原野を開拓して野幌森林公園の環境を守り、北越殖民者二代目社長であった関矢孫左衛門とも交友があった。清一郎は明治10~17年には戸長をつとめた。
金子清一郎と花畔~明治20年、「感スル処アリ憤然郷里ヲ辞シ・・」と、行商しながら東北から函館を経て石狩国に入って花畔村の現状を見る機会があった。その時感じたことは、「村民の過半は転住して現戸数は40戸足らず(→官費ヲ空スルハ遺憾ニ堪ス)」、「男は伐木業か漁業に従事し、農業は婦女子に任せてその日暮らし(→土着ノ意思ナシ)」、「この村は石狩港と札幌を結ぶ要所にある(→将来有望ノ地位ナリ)」および「土地は砂地で痩せて農作物の収穫が少ない(→適当ノ草木アラン)」であった。そこで清一郎は「棄レタルヲ起コシ危ヲ救フハ男子ノ為ス所ナリ」、「予若シ此地ニ住スレバ数年ナラサルニ此村ヲ三百余戸ニス」との思いを述べている。
花畔移住~明治21年、46歳の時に花畔村に移住した。野生の桑(ヤマグワ)を利用した養蚕を進め、住民が土着心をもつよう涵養に務めた。明治24年には花畔村惣代人に推されている。
金子清一郎の村政(まちづくり)~以下のような事業に取り組み大きな成果を上げた。
・大排水の開削:村内は湿潤地が多く、毎年のように融雪期に水害が起こっていた(明治23年や31年には大水害があった)。そこで、明治25年に村の中央に大排水を掘ることを請願した。
・教育:明治25年、実弟の田所正義(旧名 金子轍三郎)を越後から呼び寄せ、花畔小学校の教員として教育の充実を図った。
・除虫菊の導入:除虫菊は痩せ地にも適しているので、明治25年に和歌山の上山英一郎(大日本除虫菊(株)の創業者)から種を取り寄せて栽培を行った。後に、製薬や販売も行なった。
・村民契約證:明治26年に7条から成る村民契約證を結んだ。第1条には「本村ハ海浜ニ接近シ海風常ニ荒キヲ以テ農作物ニ及ホス害甚タシ故ニ禁伐林ノ設ケアリ・・右之通相守リ可申若シ條件ニ背クモノハ村民一統交際セサルモノトス・・」とあり、林を無断で伐採した者は村八分にするという後の防風林保護規約につなげた。
・植民地撰定願:明治26年、自費で測量し、植民地撰定願を提出した。
・神社:村民の心の安定を図るため、明治27年村内に神社地(7,500坪)を選定した。
・墓地:共同墓地(5,500坪)を出願した。
・村政の成果:明治32年には村内の戸数が325戸となり、花畔に移住した時の思いを実現した。
金子清一郎は上記の村政の他に、明治39年道庁に「売薬製造販売願」を出願し、「即治膏(効能:打ち身、ひび、肩こり、腰痛など)」を製造した。明治45年1月から12月にかけて全道を行商販売するなど、ビジネスマン的な活動も行なった。
金子清一郎は大正5年に75歳で没した。熊本生まれで清一郎の長女コウと結婚した安東岩平が二代目金子清一郎となった。二代目は石狩町除虫菊栽培組合長や花畔土功組合議員、町会議員などを歴任して活躍した。
最後に、石井講師が想像した金子清一郎の人となりは以下の通りです。
・現状に甘んじない進取の気質
・他人の困窮を見過ごせない性格
・問題を把握する能力
・問題を解決するための実行力
・目的を達成するまでの粘り強さ
このように意志の強そうな性格を持った人物、金子清一郎の姿を以下の写真で見ることができます。
受講者の感想や意見として以下のようなものがありました。
・石狩に転居して9年、今日の発展の基となった方々のことを知り、感動しました。同時に私達の祖先も他県から入植し、道内の地で開拓に従事したことに、ひと時、想いを巡らせる機会をいただきました。
・村山伝兵衛、金子清一郎さんについては全く知らず、この講座において良くわかりました。資料館に行ってみたいです。
・村山耀一氏の講座は大変有意義であり、時間がまだまだ少ないのでもっと詳しい講座をやってもらいたい。石井滋朗氏の講座は、良く調べられて説明があり、有難うございました。
・村山伝兵衛から10代目の現在の村山耀一氏から直接村山家に伝わる詳しい話を聞き、とても感激しています。時間が短いのでとても残念です。もっともっと話を聞きたかった。今後村山家の歴史をシリーズで開催してほしい。
・金子清一郎について~花川という地名のいきさつ、そして花畔の歴史が良くわかった。また、清一郎についてあまり知らなかったが、石狩の歴史の中では重要な人の一人だった。
・40分×2コマ=90分、テーマや内容によっては大変良い試みだと思います。