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主催講座16「おもしろ石狩大百科~いしかり人物語」

第3回「『前半/岡崎文吉~石狩川治水の祖』『後半/井上伝蔵~秩父事件の首謀者、石狩の文化人として』」

2017/03/07

 平成29年2月26日(日)主催講座16『おもしろ石狩大百科~いしかり人物語』の第3回を花川北コミユニティセンターで行いました。今回も石狩にゆかりのある二人の人物を取り上げました。前半は市民カレッジスタッフの三上富睦氏が、後半は市民カレッジの学長である田岡克介市長がそれぞれ40分ずつ講師を務めました。受講者は65名でした。
以下、お話の概要を紹介します。

前半テーマ/岡崎文吉~石狩川治水の祖
三上氏は退職後、石狩にある川の博物館に勤務することになってはじめて岡崎文吉について知った。そして秀才で凄い人であることに気づいた。どうしてそういう凄い人が出来たのか。それは教育と人脈にあると感じている。今日は、石狩川の治水を中心に岡崎文吉の治水に関する思想についてお話をしたい。
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◇岡崎文吉の自筆履歴書から
本人は、北海道の土木、石狩川の治水について研究し、立案し、執行したことを生涯の誇りに思っている。この研究によって新しく流水学を身に付けて論文を書き、世界的に認められた。 市民図書館にある、浅田英祺著「流氷の科学者岡崎文吉」(北海道大学図書刊行会)という本は、何度読んでも感動する。
◇川の博物館(佐藤水産隣)
石狩治水の歴史がわかる防災施設。岡崎文吉コーナーがある。事業仕分けで廃止になり現在は閉館中。しかし、河川の治水によって住民の生活と安全が保たれていることを知ることは大切なことであると思う。
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◇岡崎文吉年譜 その1
・1872(明治5)年11月15日岡山で生まれる。父は岡山藩士族、明治維新後職を失い、北海道に流れて来るが、母親と文吉は学校へ入るために岡山に戻る。父親の詳細は不明。
・1872(明治16)年岡山中学校に入学
オースティス・ケリー(宣教師、後に同志社神学部教授)に師事し、英学を学ぶ。平沼淑郎(後の早稲田大学総長)は一生のかけがいのない恩師。特別に自宅へよく呼ばれ経済学等幅広い基礎教養の指導を受ける。秀才であり努力家。
・1886(明治19)年 学制改革により五年生中学の三年生に編入されるべきところ学業優等のため特に四年生に編入された。公命により4月から放課後に岡山英漢学館で教授する。
授業科目:ホーセット経済書、スィントンおよびビパーレー、万国史、ミッチエル地理書、ゴールドスミス地学書
・1887(明治20)年札幌農学校工学科に入学
試験科目①英語(読書、対応、文法、作文)②地理、地文学③歴史④博物学⑤生物学⑥科学原理⑦数学(算術、代数、幾何)⑧英文和訳、和文英訳⑨漢文学
受験資格は17歳以上(入学願書では明治3年5月生れ)
一期生は予科からの進学が3名、召募による試験合格者は岡崎文吉と平野他喜松の2名だけであった。この年に校費生制度が始まり、岡崎は校費生に任命される。校費生は寄宿生活が義務であり、学力不十分で退学を命じられると、給与を受けた金員は即時返納。卒業後四か年は北海道庁に奉職すること。卒業後八か年は身分進退については北海道長官の許可を受ける義務があった。
◇札幌農学校工学科
諸科平均点60点未満は落第。評点の出し方、平均点の算定も決められている。平均評点が60点以上でも3科目以上が60点以下だと落第。二科目以下の時は再試験を受けて合格するとかろうじて進学できる。厳格なため入学した5人のうちに学年に進級できたのは岡崎と平野の二人だけであった。
・1891(明治24)年7月 札幌農学校第九期生として卒業、研究生を拝命。
・1893(明治26)年5月 22歳の若さで札幌農学校助教授に任命される。6月 兼任で北海道庁技手を命ぜられる。
・1895(明治28)年5月「札幌・茨戸間運河」と「花畔・銭函間運河平面図」の設計発表。6月結婚。媒酌人は佐藤昌介校長夫妻、親代わりは広井勇教授夫妻。
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・1897(明治30)年5月 道庁技師として設計した鋼鉄製豊平橋の着工 
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◇明治31(18989)年大洪水(石狩川治水のきっかけ)
・当時の北海道人口は約85万人(明治2年の約14倍)
・全道的に大水害が発生
全道で死者248人(現在の人口560万人とすると1634人に相当)流出倒壊家屋3,550戸
・田6,824町歩のうち1,549町歩(1/4が被災)、畑163,470町歩のうち54,549町歩(1/3被災)
・特に石狩川流域の被害が甚大
死者112人、田畑の被災は全道の70%以上
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◇岡崎文吉年譜 その2
・1898(明治31)年9月大水害を機として原始河川の治水事業には組織的計画的調査が重要であり、事業に先行すべきことを提唱。流水の基礎研究にむかう。
10月 北海道治水調査会員を命ぜられる。
・1899(明治32)年石狩川治水予備調査を始める。
12月 内務省直轄河川の視察(全行程52日間)
・1902(明治35)年1月~12月 海外の治水事情を視察研究
・1904(明治37)年7月石狩川大洪水の流量、氾濫貯水量の調査に成功
・1909(明治42)年10月石狩川治水計画調査報文の提出
この年に岡崎式コンクリート単床ブロックの開発
・1915の大正4〉年12月丸善より「治水」を出版
河川工事は近代科学や施工に依存しきることなく、河川の自然性を十分理解し、それに順応した河川工法を行うべきことを、全編にわたって力説している。
 『土木学会の近代土木文化遺産としての名著100選に収録』
・1917〈大正6〉年6月石狩川治水工事報文を提出
◇岡崎式コンクリート単床ブロック(通称ヨーカンブロック)
コンクリート・ブロックを用いた根固め工法。コンクリート・ブロック1個の大きさ、長さおよそ60cm。各辺約15cmのコンクリートの塊。あらかじめブロックの中央に2個の穴が開いている。この穴に適当な直径のある金属を通すと屈撓性が生じる。
その特徴 ①安価、②優れた強度と耐久性、③変形した河床への対応性、④急な勾配地での安定性、⑤抵抗が少なく断面を阻害しない、⑥組み立てが簡単で施工が容易。
この工法は、ミシッピー川など世界中で使用されている。
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◇治水の提言
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◇北海道には原始河川が多かった。
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・石狩川の河川跡
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◇流水の三大法則「治水」第1編第1省第1節(1~6ページ)
①流水の進路は終始一貫抵抗が最少となる方向をとる
②河床の土壌は流勢によって洗堀され流水とともに流下する
③河床の土質と抵抗力が不均等のため、流路が蜿蜒迂曲する
岡崎は流水の三大法則に基づいて河川が運河・灌漑溝・排水溝のように人口開削された水路と異なり、自然が創造した天然の水路であることを説き明かした。
◇岡崎文吉の自然主義の精神
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◇岡崎文吉による石狩川治水放水路案
彼の自然主義に基づく提案は、蛇行した石狩川の現状をできる限り維持し、洪水の時に放水路に溢れた水を流し、洪水を防止するというものであった。岡崎案が採用され、放水路設計図も出来上がり工事を始めるばかりであった。
 ところが、大正7年彼は内務省の本省にとばされた。時の内務省技監沖野忠雄がやってきて岡崎の放水路案をつぶし捷水路によるショートカット方式に変更された。
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◇岡崎文吉年譜 その3
・1918(大正7年)6月 内閣人事によって内務省土木局技術課勤務を命ぜられる。
東京時代は1918年6月~1920年3月迄(47歳~49歳)
その間6か月以上比較的余裕のある日程でアメリカハイダム、パナマ運河、ニューヨーク市水道拡張工事、リクラメーションサービスのアメリカ産大土木事業を視察できた。海外調査の研究成果は官界と学会に広く紹介した。
営口時代 1920(大正9)年~1934(昭和9)年 49歳~63歳
・1920(大正9)年5月 上游遼河総工程として支那奉天省営口に着任
・1930(昭和9)年8月中旬帰国 肺結核のため大連郊外に入院
10月 湘南茅ヶ崎の病院に入院
茅ヶ崎時代
・1934(昭和10)年6月 茅ケ崎に居宅を新築
・1945(昭和20)年2月 死去
◇おわりに
今は岡崎文吉が示した自然主義の法則の考え方が見直されている。
2002年標津川で直線化されて出来た三日月湖を繋いで蛇行を復元させ、釧路川でも2007年からから2011年までに蛇行を復元した。釧路開発建設部作成のパンフレットに次のように記されている。「川の環境本来の機能を回復し、かつての姿や機能を自主的自律的に回復することが期待される」と。

後半テーマ/井上伝蔵~秩父事件の首謀者、石狩の文化人として
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 先月、埼玉県(彩の国)で開かれた手話フェステバルに「全国手話言語市区長会」の会長という立場で、講演とパネリストとして参加してきた。そのついでに13年ぶりに秩父市の方に寄ってきた。前村長の井上さん(井上伝蔵の子孫の方)とお会いすることが出来た。13年前に得た歴史の感動というのは13年経てまた新しい真実に付き合うことが出来て本当に嬉しく思っている。

◇秩父事件のあらまし
・背景
自民党には井上伝蔵が入り困民党には秩父の皆さんを含め農民が入ってきた。その前に、明治10年西南の役をはじめとして地方では、どこかでいざこざが起きている。それはご維新によって世の中が変わることを期待した農民をはじめ庶民の皆さんが、それ以上の専制政治が行われ過酷な課税に喘ぐ時代が到来したからである。それに追い打ちをかけるように松方正義が、西南の役で使った兌換紙幣を処理するためのデフレ政策をとった。あるいは世界恐慌が広まって、秩父では主たる生計のもとであった生糸の価格が下落していった。今日本が直面しているグローバルの中でどう生きるかという次の世代を作るための苦労と同じようなことが当時行われていた。
加えて埼玉県は今でも彩の国というように学問に熱心な所で、特に数学が得意な地域だと聞いている。70%の人が本を読み、和算を習っていたというほどレベルが高く、日本で初めて2階建ての小学校を作ったところである。その学校に行かせることが負担であった事も含めて色々な案件が重なった。
1つは、自由民権運動という新しい風を受けて農民が困民党を作った。その中には、新しい社会を、新しい政府を作ろうとした人もいるでしょう。また実際に、子どもを売るところまで追い込まれ高利貸しに手を出し、わずか1年で2円が10円になるという過酷な高利の取立てもあった。
秩父事件というのは、自由民権運動の歴史の中では決して忘れることのできない大事件であったと思うし、リーダーである井上伝蔵を含めて思想のもとに動いた人もいることは否定できない。しかし、地域の人のお話を聞いたり本を読んだりすると、必ずしもそうではない。こうだと決めつけるほど単純ではなくて、秩父事件の中には個人の思想的な思いや本当に困ってこの際、物を奪ってやろうと思った輩もいる。最終的に、133年前の出来事だが、そのことを鮮明に記憶していた人を知っているということで、地域に入ると「伝蔵さん」あるいは「伝蔵の野郎」である。これは歴史の事実で対立関係にあるということである。
・四つの要求
10月31日蜂起する。最初は、高利貸しの証文を返してもらうとう動機だったのでしょうが、自由民権運動、関東一円あるいは日本全体にメッセージが届くということで最終的には1万人を突入するという歴史上の大事件になる。刑罰を受けた人4,393人、死刑11人(一説9人)、戦死者(農民)25人。
地元の人は「リーダーの人達は胆力があった」という。胆力とは、事に当たるときに肝が据わっているかどうかである。現地の案内をしてくれた引間先生の「明治の男は胆力が違う」という言葉を新鮮に聞かせていただいた。
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◇組織図の解説
総理田代栄助は自由民権家。私のイメージでは清水次郎長か山本長五郎ではないかと思う。義理人情に厚く地域の幸せのために土木工事にいそしみ、子分や町の人を大切にしたという明治の任侠の世界は、親分気質の人がこの時代に必要であったのでしょう。信望を集めてリーダーになり、田代栄助もその役割を担っていく。
加藤織平も親分と呼ばれた。翌年死刑を受けるがその死に方が男気があったと文書に残る。見事な人生を送った赤心の士といわれている。
飯塚盛蔵は北海道に逃げてきたという説もあるが、四国の八幡浜で亡くなったことが明らかになっている。
落合寅市は、昭和11年まで生きている。この後大阪事件で蜂起する一味となるが、最後にはキリスト教に転じ救世軍になる。
井上善作は、井上伝蔵の親分格にあたり相談役でもある。
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◇死刑判決を受けた11人(明治18年浦和重罪裁判所)
裁判官が賄賂をもらって特に厳しく罰したといわれている。他に網走あるいは樺戸の監獄に収監される人も出ている。
警察官も5人死んでいる。今でも「何処どこの爺ちゃんが何処どこの誰誰に殺されたんだ」という話をする。今回も、教育委員会の役職員が運転して一緒に回ってくれたが、「私の名前は新井と云います。この集落は全部新井と言います」と下を見るようにして言う。けっして事件関係者だとは言わない。何故か。やはりこの問題がこの地域であって、歴史は歴史でなく、実にリアリティな現在にも繋がる新しい事件である。私たちが今このような時間を過ごせる日本を作るための礎であったことは間違いないと思う。
明治22(1889)年に明治憲法ができる。議会ができ、選挙が行われる。色んな制度ができるが、日本の国がちょっと前までは江戸幕府が治めた日本の国を、間もなく世界と戦争するまで急速に富国強兵を進めた歪みが、明治17年頃に現れてきたと思っている。世の中を変える礎と同時に厳しい時代であった。
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◇椋神社
明治17(1887)年10月31日、秩父困民党が結集した場所。
龍勢を打ち上げる龍勢祭は、日本の中でも素晴らしい祭りの1つである。
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◇音楽寺
最後に集まった所。梵鐘の鐘を鳴らしながら大宮郷に突入して高利貸の打ちこわしを行う。
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◇軍資金を無心した証文
革命本部と書いてある。幹部の人は、新しい時代を作る世直しだという意味で革命という言葉を使った。
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◇齊藤家の土蔵
新井周三郎という警察官が切られたことにより一気に崩壊して四日目に敗れ、井上伝蔵は解散後齊藤新七に匿われる。ここから石狩への逃亡が始まる。この写真は13年前に撮影したもので今回行ったときはなくなっていた。
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◇井上伝蔵について
・6代目 井上伝蔵 1854(嘉永7)年6月26日生まれ
*先祖は北條家家老、事件当時31歳
・戒名 覚翁良心居士 1918(大正)7年6月23日、野付牛(現・北見市)で死亡。行年65歳)
・井上商店(12石7斗) 武士の血を引いた裕福な商家
・妻 こま(日本橋の芸者) 長女布伝=明治25年結婚
・石狩(親船町)
死刑囚のため戸籍は移せず、正式結婚はできず、事実上の結婚生活。
高浜ミキ(16歳)長女フミ、長男洋、ユキ、セツ,郁雄
*石狩に長く住み地域に溶け込んでいたことが分かる。
秩父の町は北条早雲が造った小田原の出で、豊臣秀吉によって北条家が滅びたとき、秩父の里に山越えで身を寄せて新しい生活が始まる。この地域には驚くほど文書が残っている。しかしその文書は殆んど見せていただけない。個々人の日記に立場があり、それを今の世に出すと事件の歴史的評価に差障りが出て混乱を招く恐れがある。
教育委員会から再版された「田中千弥日記」(椋神社神主)が事件を客観的に書いた日記を解読したもので大変面白い。
◇井上伝蔵の手配書
手配書の内容から、映画俳優のようないい男であったようだ。
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◇井上伝蔵(石狩名 伊藤房次郎)
田中実さんが見つけたといわれている写真。映っている1人ひとりを、解かる人から潰していき、この人だろうといわれている。
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◇復元された井上伝蔵の家
映画「草の乱」図書館にある。
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◇今回初めて井上家の子孫から見せていただいた看板札
伝蔵は、家業の仕事柄東京に出入りする中で自由民権思想に触れ自民党に入党し、秩父事件に走った大きな背景であろう。
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◇井上家の大きさ
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◇井上伝蔵直筆の領収書
伝蔵が代表して受け取ったという領収書。伊藤房次郎という字は何度か見ているが、井上伝蔵と全く相似形である。直筆のものが残っているのを見るのも、旅行にいく楽しさである。
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◇切紙文書
誰が書いたものか署名がないのでわからないが、周辺からも尊敬されていたことは間違いないようだ。左の写真は復元された家の内部。下の写真は井上伝蔵になった気分で座ってみた。
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◇俳句結社
井上家とその信者を含めた人びとで「連日庵」という結社で日常的に俳句を作っていた。「五箇 連日庵 井上家」
五箇というのは下吉田五箇という地名で井上の本家がある所。
代々の俳句をまとめた巻物(20m程)の中に沢山保存されている。
下の句は伝蔵が秩父事件に出る前の句と書かれている。伝蔵の心境が読みとれる句である。柳蛙の俳号は、石狩で使っていた名と同じである。幾つかの句を写してきたが、全体として心理描写の句が多い。俳句というのは、人柄、生き方、知識の深さを表わすといわれる。保存されている資料から文学的な才能もあり、「自由平等論」を読むなど博学でもあった。
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◇古い石狩市街の写真
伊藤房次郎は浅野総一郎の持ち家を借りて小間物屋や代書をやっていた。後ろの家は長野商店。
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・石狩の句
「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」 柳蛙
「俤の眼にちらつくやたま祭」(歴史公園の碑)
◇井上伝蔵(伊藤房次郎)の人物像 ≪個人的見解≫
亡くなるときに、高浜ミキさんや、長男の洋さんを呼んで身分を明かす。奥さんは故郷へ電報を打ち、弟と甥が駆けつけて来る。
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◇伝蔵のお墓
ご先祖様より大きくしてはならないという思いが表れている。
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◇井上伝蔵の孫 小池もとさん
90歳を超えて埼玉県に生きておられる。目に胆力を現わしている素晴らしい顔である。
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◇どのようにして石狩まで来たか
革命本部解散後、丘陵地帯を逃れて日野に寄り、武甲山、横瀬を超え、最終的に開耕地の齊藤新七の土蔵に匿われる。2年後、両神を超え長野、新潟、また宇都宮へ戻り、仙台、青森、そして苫小牧(室蘭説あり)に上陸し笠松家に寄宿。札幌軽川(現手稲)の村上家に入り石狩に入った。明治19(1886)年秋には土蔵を出たことまでは掴めるが、石狩に入った年代は掴めていない。石狩で小間物屋と代書屋を始める。代書は国家資格が必要であり戸籍が必要ということで、主なる経済力を失うことになり、札幌で少しの間旅館業をやった後、北見に移って亡くなったという一生であった。
これからも時々秩父に行って日記を見て皆さんにご報告の機会があればうれしく思う。ご清聴ありがとうございました。


 受講者からいただいたご意見・感想を幾つか抜粋して紹介します。
・三上氏の講義、岡崎文吉のことをよく調査されて迫力ある説明、もっと聞きたいと思った。田岡氏の講義、流石に市長よく調査されていて感心。
・岡崎文吉:大変興味深く、熱い思いが伝わるお話を聞けた。自然方法と自然主義、まさにこの点で功績は素晴らしい。
・井上伝蔵:田岡市長が最適な話し手だとつくづく思う。何度も秩父に出向き深く広い知見を話していただき楽しく有意義な時間でした。
・民衆の思いを体し、新しい時代を築く動機となる秩父事件と井上伝蔵の人柄と生き方をよく理解できた。
・川の博物館閉鎖の事、折角の施設もったいない。
・市長の要職にあって忙しい中、よく調べ研究されておりその博識に驚いた。
・三回のスタッフ講座を受講しました。資料の下調べ等大変だったろうと感心している。時間が40分は短すぎる。次回は時間を十分とっていただけるよう希望します。講師のスタッフの方ご苦労様でした。

 今回の講座をもって28年度の講座は全て終了致しました。受講いただいた皆様、HPをご覧いただいた皆様ありがとうございました。4月から29年度の講座がスタートしますのでよろしくお願い致します。





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