平成29年5月10日(水)、主催講座2『続・北前船ものがたり』の第1回「北前船を通して北海道と北陸のつながりを考える」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は昨年度の講座14「北前船ものがたり」の第2回「北前船の活動範囲と地域社会への影響」をお話しいただいた高野宏康さんです。高野さんは小樽商科大学グローカル戦略推進センター地域経済研究部学術研究員で研究テーマは「小樽・後志の歴史文化の調査研究と観光資源化」、特に北前船を象徴的なテーマとして取り上げて研究を進めているとのことでした。
高野さんは、北前船の船主集落で「北前船の里」として知られている石川県加賀市橋立町の出身です。曽祖父が北前船頭であったこともあり、本講座の語り手としてまことに相応しい講師にお話しいただいたことになります。今回の受講者は65名でした。
高野さんのお話しの概要を以下に紹介致します。
◆はじめに
北前船については本州の立場や視点からまとめたものが多いが、北海道から見た場合には違った見方があるはずで、今回の講座では①北海道での北前船主たちの活動、②北海道と北陸のゆかりの2点にポイントをあてて話したい。
◆日本遺産認定と北前船
北前船は約30年前に高田屋嘉兵衛の持ち船「辰悦丸」の復元と廻航で注目されたことがあるが、最近では「日本遺産認定」との関係で再び注目されるようになった。今年の4月29日に、全国11市町が共同で申請したストーリー「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」が平成29年度日本遺産の認定を受けた。北海道では函館市と松前町、北陸では船主集落のある加賀市の他に新潟市、長岡市、敦賀市、南越前町などが含まれている。今回の認定では「北前船寄港地フォーラム」に参加した11市町が対象となったが、今後は他の寄港地も追加されるストーリーとなっている。小樽は北前船との関わりについての全国的な認知度は低いが、北陸の船主たちと深いつながりを持っていることもあり重要性は高いと思われる。
◆北海道からみた北前船と北前船主の位置づけ
北前船は船主の出身地や船型からではなく、「買積」という形態(商業と輸送業の兼業)や航路から捉えるべきである。本州では明治以降北前船は衰退したと言われているが、北海道では開拓による人口急増や北海道産魚肥の急増によって各地の北前船主たちが北海道に進出するようになり、北海道での北前船は明治前期に最盛期を迎えることとなった。
◆場所請負制と北前船
北海道の漁獲物取引は場所請負人と北前船主が担っていた。近江商人の西川伝右衛門や紀州商人の栖原屋角兵衛などの場所請負人は本州に拠点、北海道には支店を持ち、生産・輸送・販売を一体化した垂直統合型経営を展開していた。近江商人系場所請負人が17世紀北海道に進出し、18世紀には北陸出身の船主が荷所船を雇用して勢力を拡大した。やがて、場所請負人は手船で買積経営を展開するようになり、さらに北陸の船主は近江商人から自立して北前船主となっていった。
例えば、西川伝右衛門は18世紀に北海道に進出して忍路と高島場所を請け負い、荷所船が衰退すると手船を所有して買積経営を展開した。万延元年(1860)年には手船6隻を所有し、幕末維新期には場所経営が不安定化したものの、買積による手船経営によって高い利益を得るようになった。
◆明治期以降の北前船主たちの活動
安政2(1855)年に幕府が積丹半島神威岬以北への婦女子往来の禁を解除して以降、北海道日本海沿岸に居住地が増加するようになった。その結果、道南以外の港にも進出するようになり、特に小樽港では開拓民の生活物資の取引が盛んに行われた。石川や福井の北前船主たちは三井物産などの中央資本と対抗して活動し、利尻や礼文、宗谷などまで手を広げて大規模漁場経営を行って最盛期を迎えた。
北陸の北前船主たちは函館や小樽において資本投下して会社を設立し、北海道の企業勃興に大きく寄与した。函館銀行(1896年)、函館汽船会社(1888年)、小樽・共成会社(1891年)、小樽倉庫会社(1891年)および小樽の様々な銀行・商業・海運・倉庫業などの発展において、石川の平出喜三郎、西出孫左衛門、久保彦助、忠谷久蔵、西谷庄八や富山の沼田喜三郎などの北前船主たちが官や中央資本の会社から独立した形で会社を設立し、発展させて行った。
◆北陸の北前船主たちと北海道
新潟についてみると、19世紀に帆船を所有した船主は13家、寄港地は頸城や新潟、鬼舞などであった。伊藤助右衛門(鬼舞)は1880年代に北海道に進出し、明治26年に小樽に本店を設置して精米所などを開設したが、明治37に小樽から撤退した。斎藤喜十郎(新潟)は1870年代に北海道に進出し、明治18年に越佐汽船会社を設立して新潟・酒田・北海道航路やシベリア航路(1910年代)などにも進出した。
富山についてみると、幕末期に北海道へ進出して主に米や肥料などの取引を行った。寄港地は東岩瀬、高岡、伏木など。宮城家(東岩瀬)は1900年代に富山と積丹・小樽・増毛などを年数回往復、後には北洋漁業に転身し、さらに樺太・沿海州・カムチャッカ・北千島などへも進出した。富山の銀行の北海道進出も目立った。
石川についてみると、江戸期に能登などから北海道へ移住する者が多かった。能登の寄港地は福浦、七尾、黒島、輪島などで、船主は村山家、岸田家、宮下家、時国家などであった。時国家は曽々木海岸地域の豪農であったが幕末・維新期に北前船経営に乗り出し、松前、江差、厚田、増毛、宗谷、樺太などで取引を行った。加賀でみると、寄港地は金石、美川、安宅、橋立、瀬越、塩屋など、船主は江戸期から多くを輩出した。明治期以降は多くの船主が北海道(函館、小樽)に拠点を移し、倉庫業や漁場経営、北洋漁業などに進出した。
橋立(石川県加賀市)の船主についてみると、江戸期に北海道へ進出し、近江商人の雇船頭から次第に独立して活動するようになった。酒谷家は明治23(1890)年に雇船頭の小三郎を店主に函館で支店を開設、大正7(1918)年には海運業から撤退して函館の銀行や会社に投資した。この他、西出家、西谷家、久保家、平出家など、北海道に関わりの深い船主が多数いた。寺谷家は厚田との関わりが深い(厚田村史)。
福井は中世以降の日本海海運の拠点であり、寄港地・船主集落としては三国、敦賀、小浜、河野などがあった。右近家(河野)は近江商人の常雇廻船として北海道―敦賀間の輸送を担当していたが、19世紀に買積を拡大して所有船を増やし、小樽や増毛などで取引を行った。北海道の漁場経営も継続しながら汽船も所有し、日本有数の汽船船主となった。大和田家(敦賀)は1850年代に北前船主となった新興勢力であるが、明治25年に大和田銀行、明治33年に敦賀貿易汽船会社を設立し、その後は硫黄鉱山や炭鉱を買収して明治41年に留萌にて大和田炭鉱会社を設立した。
「北海道にのこる北陸の北前船主のゆかり」についてはパンフレット〔小樽商科大学 地(知)の拠点発行〕に従って説明する。
「小樽の北前船ゆかりMAP」では、北陸出身の北前船主ゆかりの石造倉庫(旧小樽倉庫、旧大家倉庫、旧増田倉庫、旧広海倉庫、旧右近倉庫など)や旧塩田別邸(夢二邸)、住吉神社(鳥居)、龍徳寺金比羅殿(船絵馬)および展示施設(小樽市総合博物館運河館、小樽倉庫資料館)などが重要である(場所は地図上に記載)。「後志の北前船ゆかりMAP」では、船絵馬(余市、古平、神恵内、積丹、泊、寿都、島牧)や笏谷石(寿都、島牧等)、建造物(佐藤家[旧歌棄佐藤家漁場]、橋本家[旧鰊御殿])などが北前船にゆかりがある。
◆龍徳寺金比羅殿と船絵馬
北前船は小樽の発展に大きな役割を果たしたが、目に見える痕跡が少ないため船絵馬は貴重な存在である。北前船主や船頭たちが航海の安全を祈願して寄港地の神社などに船絵馬を奉納しており、龍徳寺金比羅殿に8点、祝津・蛭子神社には2点の船絵馬が奉納されている。なお、龍徳寺金比羅殿は安政4(1857)年に創建、本堂は明治9年に建築され、日本最大の木魚がある。
◆北前船がつないだ人・モノ・文化などのネットワーク
北前船は小樽の様々な分野のルーツに深く関わっている。例えば、銀行(北陸銀行小樽支店、第四十七銀行小樽支店)や銭湯、菓子店、民俗芸能などがあげられる。銭湯の経営者は北陸出身者が多く、明治15年創業で北海道最古級の現役銭湯である小町湯もその一つである。杉本花月堂(松月堂)は嘉永4(1852)年に新発田藩(新潟)で創業され、三代目が明治36年に小樽に渡って開業した。
くぼ家(旧久保商店)は北陸とのつながりが深い。明治23年に福井出身の久保与三五郎が敦賀港から北前船に乗って小樽に移住し、堺町に小間物雑貨卸問屋の久保商店を開業した(後に廃業)。久保商店の正面の立岩通り(堺町通りと直交)の先に北前船の目印となった立岩があり、北前船が停泊している写真が残されている。以下の写真の下方手前側の黒い岩が立岩である。
潮太鼓も石川と関係がある。昭和42年に第1回潮まつりが始まった時に石川出身の寺本市次郎が故郷に伝わる「左義長太鼓」をもとに潮太鼓を考案した。
◆後志と北前船
後志沿岸地域にはかつて北前船の寄港地だったところが多数あり、各地に様々なゆかりが残されている。弁財船が出入りした神恵内村の弁財澗の他、ゆかりのモノとしては船箪笥、石川の米と余別川の水を使って明治24年に積丹余別で誕生した銘酒「神威鶴」(のちに小樽の田中酒造が復刻販売)、新潟産の焼酎徳利、佐藤家の基礎石・束石や島牧村厳島神社の狛犬などに使われた笏谷石、寿都神社の錨などが残されている。
後志の神社には船絵馬が多数奉納されており、19社に64面の船絵馬が確認されている。最も多く絵馬が奉納されているのは寿都町で、全体の半数近くを占めている。
最後にまとめとして、「今回は北海道からみた北前船と北前船主の位置づけ、北前船による北陸と北海道の歴史的関連、北陸の北前船主と他地域の船主の北海道の関わり方の違いなどについて話したが、道内各地に北前船主のゆかりが多数存在しており、今後調査の推進が必要である」と述べられ、講座は終了しました。北前船を通して北海道と北陸のつながりについて非常に幅広くお話しいただき、大変有益な講座でした。
受講者の感想や意見として以下のようなものがありました。
・とても楽しみにしていた講座でした。大変興味深く聞かせていただきました。次回も楽しみにしております。
・北前船について初めて講義を受けた。流通面の役割だけではなく、その後の北海道の経済に影響を与えたことがよくわかった。
・すばらしい講義、ありがとうございます。地域の重要な文化資源を調査、研究、保存、活用する取り組みをさらに推進して下さい。特に、石狩市の厚田、浜益について調査・紹介をお願いします。
・北前船と人の流れがよくわかりました。富山県の事も詳しく勉強したいと思います。
・5月25日の見学に当たって予備知識を得ることができました。有難うございました。
・昨年に続き、大変興味深くお話を聞くことが出来ました。バスの旅、はずれて残念ですが、今日のお話を参考に個人的に行けたらと思っています。