7月8日(土)講座7「石狩歴史散歩」の第1回「南線・樽川地区と了恵寺の碑と歴史の痕跡を訪ねて」を行いました。講師は、市民カレッジ開校時から「歴史散歩」シリーズの講師を務めてこられた村山耀一氏(石狩市郷土研究会会長・場所請負人村山家子孫)。受講者31人中で、約3分の2の方が初めてこの講座を受講される皆さんでした。
午前9時、バスで公民館前を出発。受講者は、自分たちが暮らしている街中でどんな歴史の痕跡を発見できるかワクワクしながら参加し、村山さんのお話を聞きました。今日のポイントは了恵寺法蔵館です。以下、その概要を紹介します。
◇第1見学地までの車中解説(公民館~石狩手稲線~国道337号~)
・石狩の歴史は、江戸時代から松前藩の重要な交易の場所として栄えていた。
・これから巡る樽川地区・南線地区は、明治以降開拓されるまではうっそうとした原始林に覆われていた。
・明治4年(1771)に花畔・生振地区が開拓され、樽川地区は明治15年にできた。原始林の開墾は、砂地と泥炭地、寒冷な気候や病害虫の発生など悪条件の中で進められた。
・昭和40年代になってすっかり様変わりして、南北の住宅地が出来上がる。
・花川南、樽川方面の道路は、明治26年の殖民地区画がそのまま残っていてやや碁盤の目状になっていて分かり易い。昔の何線何号という言い方をすると、歴史を感ずる。花川南北・樽川地区の歴史を学ぶ上で殖民地区画は重要だ。
・国道337号線の両側の防風林は、昭和40年代の後半、新港ができ工場群ができ、その騒音から住宅地を遮断するために植林された新しい防風林である。
◇樽川地区 おもかげの田園風景
花川地区の団地造成前の風景をイメージできる樽川地区
(旧樽川村六線三号付近)
国道337号線沿い(6線3号の角地)に、大きなサイロが建っている。周囲は広大な畑地と草地が残っており、他に建物もなく防風林と手稲山が遠望できる。殖民地区画で造られた道路と排水溝跡も残っていて、当時を学ぶに相応しい場所である。
植民地区画とO線O号
明治26年(1893)に殖民地区画が設定され、今の新川(運河)を起点に第1線とし300間(約546m)毎に2線・3線と南から北へ14線まで区画された。横の区画も同じように300間毎に区画され、石狩手稲線を起点に東西にそれぞれ1号・2号と付された。
◇樽川神社と境内の碑
樽川神社は、明治37年(1904)に旧樽川村六線七号に創立されたが昭和47年石狩湾新港後背地の開発に協力し現在地に移転新築する。
・開村五十年記念碑
昭和9年(1934)7月建立。樽川村は明治15年2月開村。
・開村百年碑
昭和57年(1982)建立
・樽川村移転之碑
昭和48年(1973)建立
・樽川神社社務所
・二宮金次郎像
昭和15年(1940)皇紀二千六百年を記念して建立。旧樽川小中学校校庭にあったが、昭和48年廃校によりこの地に移転。ちょっと違和感を覚える像ですが、数回の移転により下半身が破壊されてしまったとのことで納得。
◇南線小学校の歴史
明治33年私塾樽川簡易教育所として、ふれあいの杜公園辺りにあった。その後、明治38年花川南3条2丁目に新校舎が落成移転し南線尋常小学校となり、昭和31年に現在地に移る。昭和40年代に新札幌団地が造成され、一気に人口が増加し、昭和56年には1400人もの児童数となった。花川南小や紅南小学校に分離するが現在も石狩一のマンモス校である。
◇南線神社
香川県から入植した横井元八氏以下14戸が南線地区に入り、明治30年(1897)に片山謙造氏が讃岐の金毘羅さんより御分札を受けて創設したのが始まりである。
・南線神社の位置と移動
・町村農場発祥之地 碑
この地は、明治34年(1901)に町村金弥氏が百二十町歩の農場を創設したところ。長男の敬貴氏が経営した。町村氏のモットーは「土づくり・草づくり・牛づくり」であるが砂地、泥炭で土づくりがうまくいかないことから昭和3年江別に移転。現在は平成4年に篠津に移っている。
・開田之碑
造田十周年を記念して、昭和33年(1958)建立。
石狩市街地は、畑作・酪農・水田、そして大規模住宅地として、いずれも防風林に守られて発展してきた。
・手水鉢
現在使われている大きな手水鉢の隅にひっそりと置かれている手水鉢がある。「大正十年九月十六日 片山謙造」と刻まれている。南線神社を創建した片山氏が寄贈したもので、歴史の証として貴重な碑の1つである。大切に保存されるべきである。
◇斜め防風林
・先の戦争で日本が不利な状態になった昭和19年(1940)、本土決戦に備えて、この地域でも守りを固めなければならなかった。徴用兵100人、札幌から婦人や中学生300人がトラックに乗ってやってきて、花川南小学校辺りの防風林に飛行機の誘導路や滑走路(麻生への4番道路)、格納庫(石狩南高校辺り)などの工事が着々と進められた。終戦になり完成を見ずに終わったということが文献に残されている。
・砂丘の砂はどこへいった
紅葉山砂丘は手稲前田、発寒川沿い、花川地区を通り生振地区、さらに美登位まで続く。この砂丘の砂は全て冬季札幌オリンピック道路の工事に使われた。
・石狩に防風林が残っているということは非常にありがたいことである。明治32年「防風林保護規約」を作って、保存することとした。防風林は耕地を守り、住宅地の景観や水源滋養林の役割を果たす。
・斜め防風林は、花川南公園から石狩湾に向かって真北にのびる防風林である。当初5.3㎞あったが、現在は4㎞程である。防風林は現在の石狩にとって大変貴重な遺産である。
◇花川南公園内
・紅葉山33号遺跡
紅葉山砂丘に遺跡が55あるといわれている。その内発掘されているのは、25号・33号・49号・51号の4つだけである。33号遺跡は続縄文時代前半の墓地で、今から2000年前と推定される。昭和57年(1982)の発掘で32基の墓と200点を超える副葬品が出土した。
・「飾り弓」は、白木に木炭粉を塗りその上に赤漆を塗って完成させている。更に渦巻文様も施された珍しいもの。これはアイヌの基本的文様に酷似しており、アイヌ文様の原型ではないかとも考えられている。これらの副葬品は「いしかり砂丘の風資料館」で展示されている。
◇防風林内を散策
砂丘の形状をそのまま残した防風林内を散策。木漏れ日と涼風を受けながら、受講者は明治の開拓時代をイメージしながら「おもかげの道」をしばし楽しんだ。
・横井橋
明治14年(1881)香川県人横井元八氏以下が開拓入植。横井寅蔵氏は、発寒川の向いに土地を借り、耕作のためにここに橋を作った。斜め防風林の最初の端。
・橋の向こうは札幌
◇紅葉山了恵寺
了恵寺は浄土真宗興正派のお寺で、明治27年(1894)に香川県高松市から来道の高木了玄師により開山された興正派北海道開教の創始寺である。宗祖は親鸞上人。明治43年寺号公証を許され、当寺開基了玄師と二世法恵師の一字をとって「了恵寺」とした。
集会場もない開拓時代、近辺住民にとって憩いの場であった。昭和37年、寺の庫裡を施設にあて季節保育園を開き、石狩町で初めての保育所となる。昭和46年「石狩町南線保育所」となり、さらに昭和49年に「石狩町南線保育園」となっている。
・地蔵尊
地蔵尊三体のうち二体は屯田兵関係、一体は了恵寺檀家を祀ったもので、いずれも同寺創建以前からあった。
・創田之碑(十周年記念)
昭和32年(1957)建立。元は発寒川の用水場の近くにあったものが昭和62年に移設された。
・浄土三部経一字一石塔
昭和55年(1980)第四世高木憲了氏が建立。
当山三姓教超法師が各地で気に入った石にお経の一文字を書いて持ち帰った。その数二萬六千八百八拾個を、現住職憲了師がまとめて供養塔として祀っている。
・六畜謝恩之碑
六畜/馬・牛・羊・犬・豚・鶏
ふる里の家の庭へに相寄りし深きえにしを想い出でつつ
短歌/横田庄八:明治38年花畔の農家に生れ、道立高校校長・北斗高校校長。歌人。横田めぐみさんの祖父。
・了玄法師顕彰碑
「開山高木了玄法師ヲ偲ブ」昭和63年(1988)建立。
・殉国写経塔
了恵寺檀徒第二次世界大戦戦没者の供養塔 平成13年(2001)建立
・南線小学校奉安殿と門柱
この奉安殿は、元花川小学校にあったが、明治45年(1912)分校である南線小学校に移設、教育勅語を安置していた。終戦の昭和20年10月、了恵寺に移転。
南線小学校門柱は、元は現在の市民図書館付近にあった石狩川治水事務所花畔工場の門柱であった。工場廃止に伴い、当時、コンクリート柱は貴重であったので花川小学校門柱となった。その後分校であった南線小学校門柱となり、平成15年プール建設の際了恵寺に移設した。
歴史の遺産というものは、見る人の目によって価値が見出される。貴重な碑を破壊する人もいれば、コンクリート1本にも歴史を感じて保存する人もいる。そのような人がいなければ歴史は繋がっていかない。
・くりの木二本木(石狩市記念保護樹林)
了恵寺移転前からあり、開拓当時この栗の実を拾って食べていたという話もある。平成3年石狩町自然保護条例で指定された。日本の自生栗の北限は石狩付近という説が話題となる。
・瑞穂堂(旧花畔瑞穂神社本殿)
戦後の食糧不足を補うため大規模な造田事業が実施された。地域住民から新神社建立の要望が高まり、昭和25年(1950)「花畔瑞穂神社」が建立された。昭和46年石狩湾新港計画が進められ、花畔地区は工業・住宅地へと変化するに伴い、当神社は花畔神社に合祀された。鳥居や標柱は花畔神社に移設され、本殿は「瑞穂堂」として了恵寺に移され保存されている。
◇了恵寺法蔵館『為衆開法蔵』
平成3年(1991)に、開基百年を記念して建てられた。平時は「百年記念館」と呼ばれている。
法蔵館には、経典、仏像、仏画等の宝物、古文書の他に、四世住職憲了師が幼少の頃から収集された多数の史資料が収蔵展示されている。常設展示には、大きく分けて15種1500点程展示中で、その他順次企画展示公開を行い展示品の入れ替えを行っている。
*今回の講座では、特別のご配慮により展示物を観賞させていただくとともに、美味しい抹茶と和菓子をご馳走になりました。また、ご住職憲了師自らご説明してくださるなど、受講者一同大変感激しました。
・四国鳴門の石
四国の吉野川から運んできたもので、水をかけると青色に変化する。
◇了恵寺から紅葉山公園へ異動する車窓での説明。
紅葉山49号遺跡の場所(留水地となり看板のみ)、小高い丘は砂丘の1つで、紅南小学校があった。砂丘の面影を残す風景、屯田墓地などを確認しながら紅葉山公園へ。
◇紅葉山公園内
・南線地区開発記念碑 昭和47年(1972)建立
〈碑文〉此の地は明治四年拓かれ昭和二十四年造田化により豊かなる農地となる。この優れた環境に新たなる発展を期し昭和三十九年新札幌団地に、同四十二年北海道住宅供給公社新住宅開発事業のための祖父伝来の血を供す。
南線地区の範囲は、道々手稲線の東側、市民図書館を含む花川北・花川南地区全体を云うようである。
・旧紅葉山小学校校舎
昭和54年旧若葉小学校より分離独立
昭和59年児童数1490人(38学級)のマンモス校となる
昭和60年紅南小学校開校、児童510人移転
平成22年(2010)若葉小学校と統合のため閉校
現在、北海道星置養護学校石狩紅葉山校舎開校・石狩市学び交流センター開設。
砂丘の面影を残す紅葉山公園の見学を最後に、第1回講座を終了し公民館へと戻りました。暑い中丁寧に分かりやすく説明して下さいました村山さん、熱心に参加された受講者の皆さんありがとうございました。
◇受講者からからは、「大変良かった」という感想を沢山いただきました。要約して紹介します。
・長年石狩に住んでいて歴史を何も知らなかったが、少しは石狩市民に近づいた。初めて参加して幸せな時間を過ごせた。楽しく歴史と自然を満喫、一生懸命勉強して豊かな心で生きていきます。機会があれば町内会の集まりで歴史散歩の素晴らしさを宣伝したい。
・村山先生の情熱溢れる、分かりやすい説明、お話を聞く毎に開拓当時が身近に感じられ石狩が好きになった。何度参加しても新しい発見があり新鮮な感動を覚える。感謝!!
・資料も分かりやすく充実した内容のものを用意していただいた。興味深く何度も読み返したい。
・了恵寺の住職のお話も、庭も素晴らしかった。お茶の接待まで受け感激した。また元気な内に訪れたい。
・歴史的な碑が破壊され捨てられているのを防ぐ施策をとるべきだと思った。紅葉山33号遺跡の説明盤は新しくすべきだ。
・村山先生ありがとうございました。次回を楽しみにしています。