平成30年5月31日(木)講座3『アイヌの側から見た北海道150年』の第1回「近現代のアイヌ民族の歩みと<石狩市>」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は北海道博物館学芸副館長で研究部長・アイヌ民族文化研究センター長の小川正人さん、受講者は64名でした。
「蝦夷地」と呼ばれていた地を明治政府が「北海道」と命名してから今年で150年目となります。150年の開拓の苦労や経済的な発展などについては今まで多く語られていますが、アイヌの人たちの目から見るとどのような150年だったのでしょうか。そのような観点から今回の講座を企画しましたが、第1回目には「アイヌ民族の近現代史」を研究されておられる小川さんをお迎えして開講することができました。
以下は小川さんのお話の概要です。
1.はじめに
1ー1 自己紹介
・アイヌ民族の近現代史について勉強(研究)している。
・生振で育ち発寒に住んでおられた豊川重雄さん(木彫作家、元ウタリ協会会長、石狩アイヌの長老であった豊川アンノランの孫)を通してアイヌ民族について多くのことを知った。石狩は"僕の勉強の歴史"にとって大きな意味を持っている。
・豊川さんとの縁で「アシリチェプノミ(新しいサケを迎える儀式)」の復活や「対雁の碑」の刊行にも関わった。
・北海道博物館において主にアイヌ民族の近現代史を担当し、アイヌ民族の歴史をどう展示する(物語る)か、いつも頭を悩ませている。
・博物館では6月30日から「松浦武四郎」展を開催する。
1ー2 「蝦夷地」を北海道と...
・「蝦夷地を『北海道』と改める」という記述がよくあるが、そもそも「蝦夷地」という呼び名は原住民族のアイヌの人たちが使っていたものではなく、道外の和人が使っていた呼び名である。こうしたちょっとした言い方にも注意を向けたいと思う。
1ー3 石狩市とアイヌ民族の歴史
・今日お話しするにあたって気をつけたいことは
①この150年間のアイヌ民族の歴史の厳しさ。ただし、被害を受けた面だけでなく、そうした中でアイヌ民族が自分たちでどのような動きや取り組みをしてきたのか、なるべくそこに注目していきたい。そのことを通して、そうした意思や取り組みの置かれた時代の厳しさもより浮き彫りにできれば。
②今いるこの場所に即して考えたい。せっかく石狩に来て話をするので、石狩市に即して考え、話したい。
2.石狩の150年
2ー1 生振の豊川さんや茨戸の琴似さんのこと
・豊川さんについてはよく語られているので、ここでは主に琴似さんについて話す。
・1857年頃、松浦武四郎の『野帳』の中に「琴似又市さんは16歳、石狩川中流域に住む」とあり、1870年の『石狩国上川見聞奇談』には「若年の頃数年石狩に行、荒井金助に随従し、言語其他常人に異なる事なし」とある。琴似さんは常人(ここでは和人の意味で使われています)と同じように日本語を話して聞くことができた、という。
・アイヌの若者100人を東京に送って教育を受けさせるとの開拓使の方針のもとで、1872年に琴似さんは開拓使仮学校(東京)に入学した。しかし、2年で帰郷して琴似村(今の北大サクシュコトニ川か清華亭付近)に住み、のちに篠路村、さらに1890年頃には茨戸に住んだ。
2ー2 対雁、厚田、来札で生きた人たちのこと~強制移住という過酷な歴史を生きる
・1875年(明治8)に日本とロシアの間で"千島樺太交換条約"が結ばれ、千島列島は日本、樺太はロシア領となった。日本は樺太に住むアイヌ民族に対し強制的に北海道へ移住することを求めた。その結果、1875年に宗谷に移住させられ、翌年には840人が対雁(江別)へ移住させられた。
・移住先の生活は苦しく、伝染病により人口が約400人に激減した。そうした中で、人々は漁業ができる場を求めて来札や厚田などに再移住した。また1890年代になると「墓参」を理由に樺太に帰郷する人が相次ぎ、日露戦後に南樺太が日本領になるとほぼ全員が帰郷した。ほとんどの人々が自ら樺太に帰郷したことが、この強制移住が過酷なものだったことを物語っていると思う。
・樺太アイヌの強制移住は、一般にほとんど知られていない。近代アイヌ史の歴史叙述では言及があるが、移住が悲惨な結果に終わったことは強調されているものの、その原因や問題点などについてはあまり述べられていない。
・開拓使はこの強制移住を「保護指導」と位置づけた。このような考え方はその後の歴史書の中にも強く残り、たとえば1970年頃の『新北海道史』でも、「開拓使はかれらの教育にとくに心を用い」(『新北海道史 第3巻通説2』、北海道、p.896)たと述べ、教育もまた「保護指導」の一つとして開拓使が施した、と位置付けている。そして、「教育の結果は、しかしながらあまりかんばしいものではなかった」と述べ、その理由として「生徒は勿論、父兄も教育のなんたるものかを知らず、あたかも官のために夫役人足にでも出るようなつもりであった」と、アイヌの"無理解"ゆえに失敗した、と述べている。
・それに比べると、地元の自治体史は近年記述が増えてきている。『江別市史』(江別市、1970年)の「対雁小学校」の節では樺太アイヌの児童が学んだ時期についてわずかに触れる程度であったが、『新江別市史』(同、2005年)では「樺太アイヌの強制移住」について1章を割くようになった。『石狩町史 中巻1』(石狩町、1985年)でも「南カラフト在来民の強制移住」に多くの紙幅を割いている。
◆強制移住に関連し、「学校の歴史」に焦点を当てて見てみたい。
・対雁学校の設立~1877年(明治10)11月製鋼所内に教育所を設置した。アイヌ児童の教育を目的としてアイヌが居住する地域に学校を設置したのはこれが最初で、江別における最も古い学校である。
・学校の様子が『あいぬ物語』に色々書かれている。例えば、「最初の先生は、といふと、以前樺太に医者をしてゐた、大河内宗[章]三郎といふ人で、永く土人の中にゐた人であるから、土人の言葉もできた...」などの記載がある。生徒の中には、卒業後も勉強したいと希望した者や師範学校に進学した者、あるいは学校の助教に採用された者もいる。
・見過ごせないことは、学校の経費が日用雑貨も含め全て樺太アイヌの「積立金」(アイヌ自身の労働によって得られた資金)の貸付利子をもって賄われていたことである。
・石狩小学校若生分校~1884年(明治17)頃から来札などへの移住が進み、石狩小学校若生分校には男子22名、女子2名、合計24名が入学した。
・厚田小学校~1886年(明治19)の『教育報知』第31号によれば、「石狩国原田(厚田)学校には樺太アイヌの子供が凡そ20名が入学したので、別に1戸を借りて教室とした」とある。
・来札尋常小学校~明治37年になると来札の移住戸数は35戸(人口150人)となり、同年10月にアイヌの学校が設立された(『石狩町沿革史』明治42年5月石狩町役場編纂)。尋常1年から4年までの生徒数は男子15名、女子11名の合計26名であった(『石狩案内』[石狩新聞社、1906年9月])。就学率は上がり女子の就学も増加したが、この直後にサハリンへ帰還した。(『新北海道史』の書き方と対比してまとめると、学校は樺太アイヌ自らの資金で維持されたこと、生活が少し落ち着けば就学する児童も増えていたことが大事だと思う。)
2ー3 浜益の人たちのこと
・天川惠三郎さんという、アイヌの民族活動でも活躍したことで知られている人がいる。天川さんは明治6年に小樽で最初にできた量徳小学校の第1期生で、学年で成績が最も良かったという。明治30年に浜益の実田に移住した。旭川アイヌが土地返還要求で政府に陳情した時には陳情書の作成などで大きな役割を果たした。昭和7年に実田の土地問題で石狩支庁長に請願書を提出することなども行った。天川さんが住んでいた地区は天惠部落と呼ばれ、浜益には第一および第二天惠橋という橋が残されている。
・このほか、浜益出身の山下三五郎さんは、木彫品などの工芸品の作り手として、昭和初期の札幌丸井デパートの作品展などに出品していた記録などが残っている。
3. おわりに
・石狩で生きてきたアイヌの人々の歴史には、まだまだ調べきれないことが多い。今後きちんと調べていくと、アイヌ民族の歴史がより豊かになり、また石狩の歴史そのものもよりしっかりしていくと思う。
今回は、アイヌの人々に温かい理解をよせて勉強(研究)されておられる小川先生のお話でしたが、まさしく「アイヌの側から見た北海道150年」の話であり、受講者にとっても大変考えさせられる貴重な講座でした。
最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します
・近現代の歴史と樺太アイヌの人々の苦難の歴史がよく理解できた。土着のアイヌの人々の150年の歩みについても学びたい。
・アイヌ関連講座などで学び始めて3年目です。とても理解しやすい充実の時間でした。参考文献もレジメに載せていただければさらに有り難かったです。量徳小学校の卒業生です。
・アイヌ民族の歴史の中で強制移住の件は「対雁の碑」で読んだことはあったが、石狩に関する詳細なお話、その他を初めて知ることも数多くあったので良かったです。
・「蝦夷地」の呼び方...どちらの側に立っての言い方か、改めてスッキリしました。大変魅力あるお話が聞けて大変良かったと思います。「保護」という上から目線での法律、文言についても然り、学校をひもときながら(アイヌの子ども達への教育、子どもの数などの観点)思いが深まりました。今いる「この場所」に即してのお話、小川氏の温かいまなざしが感じられました。ありがとうございました。
・アイヌの人々の歴史は石狩だけでも奥が深く、1時間半では覚えきれませんね。北海道博物館に行ってみようと思います。小川先生は京都から来られて最初からアイヌについて学ばれようとしたのですか?
・歴史は役所論理で都合よく記述されていることがよく分かりました。アイヌの人達の歴史・文化を守ることと、差別の解消に150年もかかっていることも理解できました。
・強制移住され、生活環境も劣悪な中、労働で体力消耗し伝染病で多くの命を失いながら開墾した土地等が現在に受け継がれている現状を認識し、先住民族のアイヌの人達に敬意を表し、この史実を決して忘れてはならないと思います。