9月15日(土)主催講座9「続々 北海道150年物語~開拓に大きく貢献した人々~」第1回「島義勇の石狩大府つくり」を花川北コミュニティ-センターで行いました。講師はノンフィクション作家の合田一道さん、受講者は48人でした。
合田さんは、「今日は島義勇が書いた『北海道紀行』草稿(北海道神宮の社宝)をもとにお話します。」と始められました。
以下その概要を紹介します。
「北海道紀行草稿」は殆んど漢詩で書かれている。明治天皇に呼ばれて北海道開拓をするということで献杯を受け、胸を高鳴らせて出発し、函館に入り小樽(銭函)へ渡ることなど旅の行程や札幌本府建設など様々なことが記されている。
□島義勇と評価の変化
島義勇は、肥前国佐賀藩城下の精小路(現・佐賀市精町)で佐賀藩士の長男として生まれる。合田さんが40年前、北海道文化放送の編成部長の時に島義勇の番組を作ろうとして佐賀に行った。しかし、島が佐賀出身であることすら知られていなかったため制作を断念したことがある。なぜ知られていなかったか。
明治7年(1874)島義勇は憂国党を率い、江藤新平(征韓党)らと佐賀の乱を起こす。それを鎮めたのが新政府の大久保内務卿(薩摩)。佐賀城で臨時裁判所を開き「除籍の上、梟首」の判決を受け処刑され、国賊となる。大正5年(1916)追贈により罪が消えるが人気がなかった。
一方北海道では、官吏としてやって来た侍が懸命に札幌を開き、志半ばで去って行ったが、彼の雄大な構想は残り、札幌を中心とした開拓に大きな功績を残した人として有名になっている。
現在佐賀では、七賢人の一人として有名であり公示地元では「島義勇の家」という看板も立っている。毎年佐賀の高校生が修学旅行で北海道神宮を訪れ、お参りをしている。このように、時代とともに人間の評価は変わる。
□ 島義勇は石狩大府をどのようにつくろうとしたか
「文の島一族」と呼ばれている家柄であった。8歳~22歳まで藩校の弘道館で学ぶ。卒業後家督を継ぎ、藩主鍋島直正の外小姓として3年間諸国を外遊。江戸他各地を回り、水戸の藤田東湖の影響を受ける。帰国後、江戸藩邸大広間詰などで日本国内の状況を学ぶことができた。
転機となったのは、藩から長崎の香焼島守備隊長を任されていて、外国への脅威を知っていたことである。
〇松浦武四郎はなぜ役人になれたか
黒船が来て、幕府は安政2年(1855)函館と下田を開港する。それまで松前藩が統括していた蝦夷地を幕府に上地する。その受取人が函館奉行支配組頭向山源太夫で、その下にいたのが松浦武四郎であった。なぜ侍でない武四郎が役人になれたか。
武四郎は伊勢国(現・三重県松阪市)の庄屋に生まれる。18歳から10年間日本国中をめぐり、長崎で北に対するロシアの脅威を知り伊勢に戻り父母の法要を済ませて蝦夷地探検に出発する。彼が3回(1845~1849)の蝦夷地探検の後に書いた「蝦夷初航」「蝦夷二航」「蝦夷三航」の三冊を水戸藩士加藤木賞三に見せ、水戸の烈公(藩主徳川斉昭)に献上した。
安政2年(1855)幕府から蝦夷御用御雇入を命ぜられ役人となり、安政3年(1856)向山源太夫に同行して蝦夷地、樺太を踏査。武四郎は特にアイヌについて調べる。帰路向山は宗谷にて死去するも任務を終えて函館に戻る。安政4年(1857)内陸部を調査したいと奉行に申し出許可を得て始めようとするときに出会ったのが島義勇である。
〇島義勇と松浦武四郎の出会い
島は安政3年(1856)、藩主の命によって蝦夷地の調査にきていた。そこで武四郎と出会う。函館奉行の付き人となって蝦夷地を回ることになり、出立を前に二人で蝦夷地の開拓について語り合う。
それが、明治になり、初代開拓使長官に前肥前藩主鍋島直正がなり、その推挙で島義勇は主席判官になる。開拓判官には岩村通俊や松浦武四郎が入る。石狩大府を提案したのは松浦で島が同意して長官に伝え着手する。しかし、2代長官東久世通禧と建設費用の調達を巡って対立し、明治3年(1870)、島は志半ばにして北海道を去ることになる。札幌の町づくりは継続され、その構想は随所に継承されている。
□当時北海道はどんな状況であったか
〇松浦武四郎「蝦夷日誌・五編」
・石狩太府についての提言
・アイヌ民族の扱いに対する告発
〇榎本武揚が勝海舟・山岡鉄舟・関口良助に宛てた手紙
新政府の徳川家に対する扱いを許せないとする内容
〇明治2(1869)年の年譜
・5.18五稜郭にある榎本武揚以下、政府軍に降伏
・5.21 清水谷青森口総督ら、箱館に移る。祝砲を発して平定を祝う
・5.21 上局会議を開き、皇道興隆・知藩事新置・蝦夷地開拓の3件を勅問
・5.22 下局会議を開き、皇道隆盛・蝦夷地開拓の2件を勅問
□島は何をしたか
〇天皇が太政官を通してアイヌに対するお触れと武四郎の姿勢
武四郎は、蝦夷地開拓とアイヌ民族への触書から、天皇が日本国を統治し政治は変わる。アイヌ民族に対する扱いも変わると思った。島も同様である。
武四郎は長官に対して、松前藩による支配と場所請負人制度の廃止などを要求したが受け入れられず、明治3年(1888)官位を返上して辞める。島はよくこのことを知っていた。
〇鍋島直正が天皇からもらった勅諭
蝦夷開拓の任を受けた島は、どれほどの緊張感を持って職責を果たそうとしていたか。
〇武四郎が命名した北海道
当初は北加伊道。加伊はアイヌ語で「この国に生まれし人」の意。金田一京助や松本十郎らから批判され、否定された時期がある。
〇北海道命名 太政官布告(道庁赤レンガ蔵)
「蝦夷地自今北海道と称せられ十一箇国分割国名郡名等別紙の通りに仰せ出でられ候事」八月 太政官
□島義勇はどんなことを考えていたか
〇最初に何をしたかったか
最初に神社を建てたかった。それは天皇から授かった「開拓三神」を背負ってきたからである。神社を建てる場所を決めるため明治2年(1869)12月10日にコタンベツの丘(現北海道神宮後の丘)に登る。
〇北海道紀行草稿
・「将に開府相地石狩国札幌郡中賦を以て祝う」
・他日五洲第一都 (訳)いつの日か世界第一の都になる
〇当時の苦労の様子
・黒松内途上二首
・不嫌荒原伴犬眠
・北道不知暦
・島義勇直筆の手紙(部下に出したもの)
□どんな街をつくろうとしていたか
〇防御図 (道庁赤レンガ蔵)
上が石狩の海で、黒い所が大湿地帯で、その奥に本府。戦略的には最高の布陣である。敵ロシアの南下に備える。
〇明治3年の札幌
・大友掘り(創成川)に直角に大通り
・南1条西1丁目が札幌の起点
・大通り(104Mの火防線)、北側官庁街・南側は町人街
・島のあと岩村通俊に引き継がれた
岩村は、労働者を繋ぎとめるためにすすきの遊廓を作った。
□北海道開拓は複雑な難しい問題をはらんだ開拓であった。
どんな人々が北海道にやって来たか
・廃藩置県により武士は職を失い、北海道開拓は渡りに船であった。
・敗北した藩の人々
・職がなく食うに食えない人々
・華族や士族が土地をもらって入植
・屯田憲兵(琴似、山鼻)⇒西南戦争に官軍として出陣
北海道人はバランス感覚があると思う。北からみた明治維新は、凄まじい維新であった。そういうことを本州の人は知らない。そんなことを考えながら北海道150年の意味を噛みしめたいと私は思っている。
受講者の感想を一部抜粋して紹介します。
「北海道150年に係る開拓の歴史について、島義勇・松浦武四郎を中心に詳細に話してくれた。普段聞く事が出来ない歴史の裏話?等本当に貴重なお話であった。史実に基づく文書も解説してくれた。北海道が誕生する迄には、天皇、旧幕府の関係等色々秘話がありまさにノンフィクションの世界を味わった思いである」「北海道開拓に大きく貢献した人々を、日本放送作家合田一道講師の島義勇の功績を、資料を通して詳しく講演して頂き(石狩大府作り)にも触れられ感銘を受けた」「松浦武四郎、島義勇のように北海道に貢献した人でも良く思われないこともあったとか。結局は北海道を知らない人達が北海道を見下している。現在を見ても国内で北海道は後回しにされているような気がする。文字は時代によって変わるが、古文のくずし文字は当時の人は読むことができたのでしょうか」「人物と背景を詳しく学ぶことができた。歴史がわかりやすい、北海道のこと学ぶうちに楽しくなった」「島義勇と松浦武四郎との関係のオモシロさ、なかなか聞けない有意義な話でした」「貴重な資料を含めての説明有難うございました」