令和元年6月6日(木)講座3『明治期の商都小樽』の第1回「明治期の小樽の概説史~港湾・鉄道・文化など」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は小樽市総合博物館学芸員で文学博士の菅原慶郎さん、受講者は48名でした。
菅原さんは平成29年度の講座「坂と歴史の港町・小樽の歴史的建造物を訪ねて」の講師をしていただきましたが、今回は明治期の商都小樽について五つのテーマにしたがって大変興味深い話をしていただきました。以下にその概要を紹介致します。
Ⅰ. 市街地の形成
・幕末期のヲタルナイ(今の南小樽駅周辺)の絵図によると、海底火山の噴火でできた大きな立岩や運上屋、幕府御用所、遊女屋、コンタン小路、二つの寺などがあり、かなり繁栄していた様子がわかります。
・安政4(1857)年の「入北記」によると、ヲタルナイはこの辺りで第一の港で大船が70艘も停泊し、戸数が多く、遊女が116人もいて箱館にも劣らないほどであり、「蝦夷地がこのような事であるとは夢にも知らず、内地の人は蝦夷地といえば蛇蝎のように嫌うが、それは井の中の蛙と言うべきものだ」と述べています。
・明治5(1872)年頃の小樽の絵地図には海岸線中央に常夜灯(灯台)、海関所(税関)、開拓使出張所など、また勝納川付近(現在の南小樽付近)の当時の中心市街地が描かれています(下の絵地図参照)。
・現在のメルヘン交差点や小樽オルゴール堂付近の小樽最古級の写真(明治初期)も残されており、三本木の坂が写っています(下の写真参照)。
明治5(1872)年頃の絵地図
小樽最古級の写真(明治初期)
・安政2年の徳川直轄の時から勝納川沿岸地域が小樽の中心地となって最も繁栄したが、火災や川の氾濫などがあって少しづつ衰退し、入船町、港町、堺町、色内町および手宮町などの西の方に中心地は移っていきました。
・面白い話として、明治5年頃に榎本武揚ら3人が今の小樽駅周辺の土地10万~20万坪を購入し後に売却して大儲けをしたという話があります。榎本は「小樽は自分の第二の故郷である」とまで言っています。
・明治35年の小樽港明細案内図には鉄道の記載がありますが現在の小樽駅は描かれてなく、明治36年頃の小樽市街地の写真でようやく「小樽中央駅」(現:小樽駅)が出てきました。下の写真右下の拡大写真が小樽中央駅と線路、左下の拡大写真には煙を出している火力発電所が写っています。
明治36年頃の小樽市街地
Ⅱ.北海道初の鉄道開通
・石炭は重要な物資であり、三笠の石炭を小樽まで運ぶ鉄道を建設するために二つの案が考えられました。第1案の幌内―(鉄道)―幌向―石狩川―(川船)―石狩―(船)―小樽は建設費が安いが、石狩川の冬季間凍結と春の氾濫、2回の積み替えによる手間などから断念、第2案の幌内―(鉄道)―室蘭は積み替えの必要がなくて運送が容易ですが苫小牧に湿地があるため建設が困難で、建設費も高額であるという欠点があり、やはり断念しました。
・鉄道建設に絶大な力を発揮したのは米国の土木技師であるジョセフ・U・クロフォードです。明治11年に北海道の鉄道建設のために来日し、脆い崖が続く海岸線の難所を克服して約9ヶ月という短期間で銭函~手宮間の馬車道を開通させました。そして、翌明治13年には北海道最初の鉄道を札幌~手宮間に完成させたわけです。
・鉄道の試運転の時に渡った入船陸橋は木造でしたが、その後鉄橋に造り替えられました。その鉄橋を渡る機関車「しづか号」の明治20年代の写真が残されています(下の写真参照)。
・「しづか号」は6番目の機関車で、今も小樽市総合博物館に実物が展示されています。1号の「義経号」と2号の「弁慶号」はクロフォードが米国からトベイ号という船で運んできましたが、京都と大宮(現さいたま市)に今も残されています。
しづか号 明治20年代
・手宮駅の機関車の車庫などの旧手宮鉄道施設が今も残っており、国指定重要文化財になっています(下の写真)。左側は国産2号で明治28年に製造された大勝号、中央はアイアンホース号で故障がなければ、ほとんど毎日運転され動体保存されています。
旧手宮鉄道施設(国指定重要文化財)
Ⅲ.北海道移民流入の窓口
・明治時代の小樽の戸数や人口が下表に示されています。明治2年の2,600人から明治40年には人口が9万人に増え、特に明治25年から明治30年までの5年間に2万3千人も急増しているのが目立ちます。小樽の人口は昭和30年台に最高20万人まで増えましたが、今は11万5千人になっています。
・明治38年の北海道移民の職業を見ると、52%が農業、漁業10%、商業7%となっています。小樽を含む後志では農業が31%、漁業が11%となっていますが、不詳というものが31%もあります。不詳というのは日雇いや小樽で一発当てようとしていた職業不定の人たちのことと思われます。石狩地方は農業が69%も占めていました。
・明治36年に水天宮神社の上から撮った小樽港の写真があります(下の写真)。手前に立岩、海には弁財船、洋型帆船、汽船などや連合艦隊、また奥には防波堤などが見られます。
小樽港 明治36年
・「北前船」について整理すると次のようになります。「北前」とは瀬戸内海方面で日本海側を指すもので、船主の出身地は北陸や山陰地方などです。船型としては和型帆船(弁財船)や西洋型帆船があり、主に江戸後期から明治時代に日本海航路で活躍した船のことを言い、「北前船」の名前自身は後世に大きく広まった呼称であると考えています。明治40年の小樽港における入出港記録でも汽船、西洋型帆船および和型帆船の区分がありますが、北前船という名称は使われていません。
・明治中期の小樽への積荷としては縄、丸太、味噌、越後玄米、石油、砂糖、酢などの日用品全般が運ばれ、一方、小樽から本州への積荷は鰊白子、鰊絞りかす、筒鰊、鰊数の子などのニシン関連のものが殆どです。
Ⅳ.海岸の埋め立てと石造倉庫群の誕生
・明治前期の小樽港の海岸線はゴツゴツとして荒れていましたが、埋め立てられ平地になりました。その結果、明治末期の小樽港は整理され倉庫が立ち並ぶ立派な港になりました。
・小樽が港としての地位を高めたのは北防波堤があったからですが、北防波堤を造ったのは札幌農学校二期生の廣井勇です。コンクリートブロックで造った防波堤は世界で最新鋭で、110年経った今でも使用されています。コンクリートブロックは蒸気機関車で運ばれ、積畳機(セキジョウキ;クレーンのようなもの)を使って海に下ろして防波堤が造られました。
・小樽に大量の物資が集まり、その保管場所として石造倉庫がつくられました(下の写真)。明治32年の『小樽港史』によれば「石造家屋や土蔵が明治14年の大火災の後に次第に現れ」とあり、大正3年の『小樽区史』には「明治37年の大火によって当時1万180戸の家屋の4分の1強が灰燼に帰し、堅牢で美観を備えた石造や土蔵に改築された」とあります。
明治末期の石造倉庫群
・国指定重要文化財である「旧日本郵船小樽支店」は明治39年に小樽と登別の石材を使って造られた石造建築です。日露戦争で南樺太が日本領土になった時の国境画定委員会議の会場として使用されました(下の写真)。
・石造倉庫の石材としての小樽軟石は、海底火山の噴火でできたため脆いという欠点があリますが様々な模様があって美しく、色も多様で扱いやすいという長所がありました。一方、札幌軟石は支笏火山の噴火ででき陸上で固まってできたため堅牢であり、多くの場所で使われました。
旧日本郵船小樽支店(国指定重要文化財)
Ⅴ.「まち」の急成長
・明治38年に小樽から移出した額は全道の41.5%を占め、移入額は全道の49.0%を占めており、小樽が北海道経済の中心地であったことを示しています。
・小樽近郊のニシンの漁獲高は明治・大正時代に多く最高9万トンも獲れました。昭和に入ると激減しましたが、現在は500トン程度まで獲れるようになってきています。
・銀行の数を見ると、明治時代に急増し大正になると最高25行の銀行ができました。ちなみに現在は3行のみです。明治に建造された日本銀行旧小樽支店はレンガ造りで、市指定有形文化財になっています(下の写真)。同様に、北海道拓殖銀行小樽支店も明治時代に造られましたが、今は存在していません。
日本銀行旧小樽支店(市指定有形文化財)
・明治後期の小樽の観光地として赤岩温泉があり、明治36年の新聞に記事が掲載されています。小樽から道もありますが汽船でも行けました。
・石川啄木は明治40年に小樽に来て3ヶ月滞在しましたが、啄木は「小樽人は歩行せず、常に疾駆す。小樽の生活競争の激甚なる事、殆ど白兵戦に似たり。(途中省略)『疾駆する小樽人』の心臓は鉄にて作りたる者の如し。」と記述し、当時の小樽人が大変エネルギッシュであったことを述べています。
講師の菅原さんからは、豊富な写真や資料を使って明治期の小樽の港湾や鉄道などについて詳しく説明していただきました。大変興味深いお話でした。
最後に、受講者の感想や意見のいくつかを以下に紹介します。
「知っているようで知らなかった小樽、楽しく勉強できました」
「明治の小樽の新鮮な情報に触れることが出来ました。とても興味深かったです。感謝です」
「明治時代の子供になった気分で講義を聞きました。当時の地図、写真を見ての説明は大変わかりやすかったです。楽しい講義でした」
「小樽で生まれたけれど、知らないことだらけ。古い地図はプロジェクターだけではなく、もっと近くで見たかった。小樽の博物館、図書館に行かなければ見るのは無理?」
「小樽の歴史、自分の知っている事はほんの最近のこと。昔の小樽、すごく興味がわいてきて楽しい講座。菅原先生、素晴らしい。再度ゆっくり講義を受けたいものです。来週、楽しみ」