主催講座5「石狩歴史散歩~生振地区・浜益地区~」
2019/07/20
令和元年7月13日(土)、講座5「石狩歴史散歩~生振地区・浜益地区~」の第1回「生振地区の碑と開拓の歴史を訪ねて」を行いました。講師は石狩郷土研究会会長で場所請負人村山家子孫の村山耀一さん。受講者は43名でした。
◇はじめに村山さんは、今日学習する「生振を中心にした石狩の歴史」についての全体的なイメージを話されました。
・生振は、豊川アンノランという琴似アイヌの一族が移住してきたことから始まる
・明治4年(1871)に生振村として形成された(花畔村と同年)
・愛知団体が生振の歴史に重要な関りを持っている
愛知団体は、明治24年(1891)に起きた濃尾大地震の影響を受けた人々が北海道を目指し、生振にたどり着いたのが明治27年(1894)。
・生振は石狩川の大きな蛇行の中で、幾度となく洪水に見舞われた。その洪水から守るために、蛇行を直線化する生振新水路(生振捷水路)が造られた。それによって生振は四面川に囲まれた孤島となり、外への交通手段は渡船のみとなった。
以下、講座の概要を紹介します。
◇観音橋
・所在地 石狩市生振3線南 茨戸ガーデン近く(石狩市と札幌市の境界地点)
・建立年 昭和10年(1935)10月
・生振捷水路の完成(昭和6年)により孤島化した生振地区の人々の願いで作られた堤防と狭い水路(7m)に架けた橋である。橋名は生振観音と関わっている。
◇ハルニレの木(アカダモ)
・所在地 石狩市生振691番地(3線南)
・樹高 16m
・推定樹齢 約300年
昭和47年(1972)北海道自然保護条例にもとづく記念保護樹に指定される。旧伏籠神社前(現農協倉庫横)にあり、生振村のシンボルである。本町地区から観音橋を渡って札幌へ往来するときの方向を定める目印にもなった。
◇参泉小学校跡碑
・所在地 石狩市生振3線南
・建立年 平成2年(1990) 生振開村百周年記念事業
・昭和28年生振5線に校舎新築、生振小学校と統合移設
◇今に残る開拓当時の茅葺住居
・所在地 石狩市生振2線南
・築年 明治末期
この住居は明治27年(1894)に入植した愛知団体のリーダー長江常三郎の親族の所有地であったと思われる。現在の所有者は塩原正幸氏。屋根は切妻屋根の妻側に屋根の上部から寄棟屋根のように屋根面を設けた「はかま腰屋根」の形になっている。
・屋根裏の構造
◇妙法寺 春光寺
・所在地 石狩市生振325の1(旧3線3号)
・本尊 釈迦牟尼佛 (江戸時代作)
明治27年に入植した愛知団体のリーダー長江恒三郎が禅宗の檀徒であったことから、明治29年(1896)に現在地に草庵を造作したのが春光寺の起源。明治31年(1898)妙心寺派本山直轄寺院として建てられる。
初代住職は前川月渓師で大正2年現本堂を建立。二代目前川道寛師は石狩市郷土研究会会員で俳人でもあった。
今日は三代目住職前川英信師のご厚意で案内していただく。境内の墓所には、長江家の墓碑や児島家の墓碑などもある。
〇長江家墓碑
ご住職案内で境内の観音堂や本堂内をご説明していただきました。
〇馬頭観音堂
生振馬頭観世音菩薩像は、明治32年(1899)に香川県より旧茨戸渡船場に移転安座された後数回の遷座を経て、平成25年(2013)春光寺境内に移転建立し、末永く護持することになった。
本堂は大正2年(1913)建立、当時としては立派な建造物であった。本尊のお釈迦様は修理中であるが、延宝9年(1681)の銘がある。
〇弘法大師像(空海) 江戸時代の作
〇千手観音像 南北朝時代の作
特別に祭壇からだして表裏を拝見できるように、また多くの資料も展示してくださいました。
〇日本電信電話株式会社社長児島仁氏直筆の書で生振神社境内の碑に記されている原書
ご住職はじめご家族のみな様に丁寧に対応して頂き、帰りにはお土産までいただきました。ありがとうございました。
◇生振小学校
・所在地 石あり市生振375番地(生振五線南)
生振小学校は明治29年(1896)生振尋常小学校として開校。昭和56年(1981)に火事になり現在地に移る。現在は特認校となり、水田を耕すなど自然との係わりを持ちながら特別な教育を行っている。全市から80名の児童が通学しているが、生振の子どもは1人もいない。
生振小学校庭ふれあいの園内の碑
〇開校百年碑
〇供養碑
・建立年月日 昭和39年(1897)4月
この碑は教材に使われたカエルやバッタ、チョウなどの霊を慰めるため建てられたもので発案したのは同小学校の児童である。
〇生振にあった元小中学校の門柱群
◇創生園内の碑群
平成2年(1990)、開村120年を祝う事業に際し生振小学校旧跡地に小公園「創生園」を創った。生振地区開拓の歴史を物語る多くの碑が設置されている。
〇学校田と碑
昭和60年(1985)からはじまり、平成2年(1990)開村百二十年記念事業の一環として「学校教材田」として造田された。
〇揚水機 二基
〇水鴻恩碑
〇岩鉄
〇生振開村百二十年碑
◇生振神社
・所在地 石狩市生振203番地4
明治6年(1873)玉木団体が七線北三号に小祠を建立し、祀ったのが発祥。生振神社は4回移転し、明治40年(1907)に現在地に移遷鎮座した。昭和43年(1968)北三線にあった伏籠神社を合祀する。
〇写真にある5基の碑群について
上の写真右から
・和敬芳
愛知団体記念碑で昭和19年(1944)開村50周年を記念して建立された。最初は、伏籠神社境内(ニレノキのある所)にあった。
・復刻碑
左の長江常三郎顕彰碑の碑文を書写したもの。昭和56年(1983)建立
・長江常三郎顕彰記念碑
建立年月日等風化により判読できず
・愛知県団体開拓百年碑
平成5年(1993)建立。碑文は、春光寺で見た児島仁氏(NTT第3代社長)直筆の書がもとになっている。
・愛知県団体開拓百年碑の説明碑
◇石狩川改修記念小公園内の碑
所在地 石狩市生振9線北3号堤防上
ここから見える範囲に、かつて捷水路工事が始まる大正7年から昭和6年頃までの間には1千名を超える人口と大きな町があった。商店、床屋、食堂、病院、香取神社などもあった。
〇石狩川治水発祥之地 (下の写真右)
生振捷水路は、石狩川における最初の切替工事として着工されたことを示すものである。
〇殉職碑 (下の写真左)
大正14年(1925)に香取神社に建立され、その後、八幡神社に移設、平成16年現在地に移設された。
〇石狩川 生振捷水路パネル
石狩川の蛇行と捷水路の様子が良くわかる写真
◇生振観音堂
・石狩市生振8線北 本尊は勢至観音
富山県から入植した、中田伊佐次郎と父庄次郎の霊感によって開堂された。大正11年(1922)、二人の夢枕に勢至観音のお告げがあって、霊感によって万病を治された。伝え聞いて来る人々は、道内はもとより樺太にも及び、境内に2軒の旅館も建てられた程であった。
勢至観音を訪れた患者が置いていったギブスと松場杖
◇生振墓地
〇豊川アンノラン墓碑
・はじめ北生振の墓地にあったが、石狩川の流れに削られたため大正3年に生振墓地に改葬する。
・石狩アイヌのアンノランがなぜ豊川姓を持つのか。明治に入り国民は名字を持つことになったためではないかと推測する。
・明治4年(1871)に入植した玉木団体の人々に、北海道での生活について助言協力するなど、石狩の歴史に重要な役割を果たした。
・3代目の豊川重雄氏は生振に生まれ札幌に住んでいたが数年前84歳で亡くなる。故荒木伊佐男氏に師事し木彫りをはじめ平成10年(1998)に「アイヌ文化奨励賞」を得る。重雄氏の遺品は石狩市に寄贈される。
〇アイヌの人の墓標
写真は、先が尖っているアイヌの男性の墓標。
以上で、今回の講座は終了しました。村山さんは車窓からも生振の位置や殖民地区画と道路の関係、防風林などについても詳しく解説してくれました。初めて受講された方は勿論、複数回受講されている方も新しい発見があり、一層理解を深めることができる内容でありました。
最後に、沢山いただいた受講者からの感想の一部を要約して紹介します。
「初めての生振で知らない事だらけでしたが村山先生の案内でよく理解することが出来ました。叉春光寺では住職自ら教えて頂き内容のあるお話ありがとうございました」「40年も石狩に住みながら、生振地区のことはほとんど知りませんでした。先生のお話もわかりやすく楽しい半日でした」「知りたかった事、行ってみたかった所(勢至観音)等興味ある所ばかりで大変良かった。資料も詳しく丁寧でうれしい、講師の説明も情熱的で素晴らしい」「歴史がある街とはいえ感激しました。石狩川の苦労が少しだがわかった様な気がします」「墓参の都度横に春光寺があった。初めて本堂でお参りさせていただき歴史のある観音像も立派であった」「11回目、いつも新しい発見がありワクワクします。資料も新書版に相当する内容です。リピーターをあきさせない講師の工夫に頭が下がります」「素晴らしい解説、きめ細かな充実した資料勉強になりました。埋もれたお宝発見の感じがします。大満足の半日でした」「何時も石狩歴史の史実を基に詳細な説明と貴重な資料を提供戴きありがとうございます。資料は永久保存しています」