10月23日(水)、主催講座12「新渡戸稲造の世界」の第1回「新渡戸稲造は何をしたか」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道大学農学部名誉教授の三島徳三さん、受講者は57名でした。
初回は、主に新渡戸稲造の出生から札幌農学校教授時代についてのお話でした。
◇出生から札幌農学校入学まで
・文久2(1862)年、南部藩士の三男として現盛岡市に生まれる
・7歳の時、叔父太田時敏の養子となり上京、2年後東京外国語学校入学
・明治10(1877)年、札幌学校2期生として入学(16歳)、同級に内村鑑三、宮部金吾
※札幌農学校とクラーク精神
・明治5年、東京・芝増上寺に開拓使仮学校設立
・明治8年、開拓使仮学校は札幌北2西1付近に移転、札幌学校と称する
・明治9年、マサチューセッツ農科大学学長のW.S.クラークを教頭に招聘し、札幌農学校と改称
クラーク博士の教育方針は、校則を全廃し、紳士たれ(Be gentleman)を唯一の指針とした。8ヶ月後にBoys, be ambitiousの言葉を残して離日。
◇アメリカ、ドイツへの留学
・明治14年、農学校卒業、開拓使御用係を拝命
・明治16年、東京大学入学、面接で太平洋の橋になりたい(I wish to be a bridge across the pacific)と答弁
・明治17年、東大を退学して渡米、ジョンズ・ホプキンス大学で3年間、経済学、日米関係史など勉強
・明治20年、渡独しボン、ベルリン、ハレの各大学で農政学、農業経済学を勉強、「日本土地制度論」でハレ大学から学位を授与される
・太田姓から新渡戸姓に復帰
◇札幌農学校教授の7年間
・明治24年、1月にエルキントン家のメリー(萬里子)と結婚、3月に夫人と共に帰国、札幌農学校教授に就任(30歳)
・本科の農政学(農学総論)、殖民史、経済原論、独逸語、予科の英語、倫理など週20時間
・学制改革の責任者として演習・実験を日本で初めて導入(米国のSeminar、ドイツのSeminarを参考)
・予科主任、図書館主任、教務主任、衛生委員長、舎監、学芸会会頭(機関紙「恵林」刊行)
・学外では聖書研究会(自宅)、堀基(北炭社長)創立の私立北鳴学校(中学)教頭、スミス女学校の運営に参画(北星女学校の名付け親)
・道庁技師として泥炭地調査、小作法案研究、指導
・北海道経済会(懇話会)、北海道禁酒会、勧農協会(機関紙「北海之殖民」)、北海道教育会、札幌史談会会頭(「札幌沿革史」刊行)、北海道協会などに参画
・明治30年10月、転地療養のため農学校教授休職、鎌倉、沼津、伊香保温泉で静養、31年3月辞職
◇札幌農学校はどこにあったか
現在の札幌時計台からANAクラウンプラザホテル札幌あたりまでが学校の敷地だった(北1条~2条、西1丁目~2丁目)
◇新渡戸稲造夫妻の住居(官舎)跡
現在のANAクラウンプラザホテル札幌の一角に案内板が建っている。
◇新渡戸稲造顕彰碑
北海道大学ポプラ並木の近くに設置されている。また、学内には、メリー夫人が寄贈したハルニレがある。さらに、北海道にスケートを広めたと言われている。
◇清華亭(札幌市有形文化財)
内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、宮部金吾がキリスト者として将来を誓い合った場所
◇札幌遠友夜学校(新渡戸夫妻が残した遺産)
・アメリカ留学中から貧民子弟の教育に使命感を持つ
・メリー夫人の実家で育てられた孤児の遺言で送られた1千ドルを資金に、独立教会「豊平日曜学校」の民家、敷地を買い取る(南4東4)
・明治27年、「札幌遠友夜学校」を設立(2年後に校名をつける)
・校名は、論語の「友あり遠方より来る、また楽しからずや」から付けられたと云われるが、日記には早世した息子「遠益・トーマス」の名からとった事が記載されている
・講師は、農学校、北大生、生徒は貧民子弟
・昭和4年に新校舎落成(現札幌市中央区南4東4)
・建学の精神は、慈愛の心と実学
・授業方針
生きるうえで必要な学問を身につけよ(学問より実行)。読み、書き、話す力を身につける。
・遠友夜学校を支えた人たち
半澤洵―代表、校長として後半期の学校を支える。
新渡戸萬里子―第2代校長。
三島常磐―会計理事として新校舎建築に奔走。札幌写真界の草分け。
宮部金吾―農学校教授として稲造離札後の学校経営を支える。世界的な植物学者。
有島武郎―4代目代表として明治末~大正初期の学校を支える。学生時代から教壇に立ち、校歌の作詞者でもある。
◇閉校
昭和19年、灯火管制、学徒動員、勤労動員、非軍事教練の拒否などが原因で50年の歴史に幕を閉じた。
◇50年の歴史
・卒業した生徒約1100名、教師は札幌農学校・北大生を中心に約600名。
・「学びたい」者と「教えたい」者の存在による白熱した交錯の中で、無資格校ながら札幌遠友夜学校の教育は成り立っていた。これは、現在の教育への警鐘ではないか。
◇新渡戸稲造記念公園
札幌遠友夜学校の跡地(南4東4)は、新渡戸稲造記念公園となり、公園内には青年が新渡戸稲造、萬里子夫妻の胸像を捧げて立っている山内壮夫作のブロンズ像がある。
◇昭和8(1933)年10月、カナダ・ヴィクトリア市で逝去(享年72歳)
以上が本日のお話の概要ですが、新渡戸稲造の名前だけは知っていても、どんなことをした人なのかは余り知られていない中、三島さんのお話を聴いて、稲造の人となりや業績などが大変良く分かりました。2回目からの、さらに詳しいお話が楽しみです。
最後に、受講者から寄せられたコメントの一部をご紹介します。
「市民カレッジでも見学した北大構内ですが、本日の三島先生の講義を踏まえてもう一度訪れてみたいと思います。北海道に貢献し、5千円札にもなった新渡戸稲造の事を知らないのは北海道に住む者にとって恥ずかしいことですね。この感想を書く時も『新渡戸』の名前を資料を見ながら書きました」
「今まで名前だけで、詳しく人物像が学べて良かったです。先日から『武士道』を読み始めたところです。まだ、半分ほどですが、次回が楽しみです。ありがとうございます」
「名前しか知らなかった『新渡戸稲造』・・・しかし、札幌、北大、日本農業に関わっている事を知り驚きました。次回、次々回も必ず来ます。パワーポイントと先生のお話、ともに分かり易く、時間が過ぎてしまいました」
「新渡戸の名前はお札や武士道で知っていたが、北海道開拓、教育に大きな功績があったと知りました。遠友夜学校に力を注いだのは、キリスト教精神なのでしょうか。武士道精神とキリスト教精神、どうかかわって来るのか次が楽しみです」
「なかなか自分では知り得ないことを教えて頂いて、また札幌にゆかりの地のある事を知り、訪れてみたいと思いました。少し改善をお願いしたいこととして、音声が小さく、語尾など聞きずらいと思う点がありました」
「新渡戸稲造の生き様の土台に、慈愛の心と実学、学問より実行、札幌遠友学校の設定なのに流れる知育より心育(人格者)を大切にしていたことが分かり勉強になりました」
「丁寧な話で新渡戸稲造第1回を学べました。写真が多く、わかりやすく良かった。さすが新渡戸を語らせたら第一人者の三島先生と思います。ありがとうございました」
「新渡戸稲造博士の一生涯を学ばせて頂き、人格的考察に及び、人間としての価値を尊く生きることの大切さを知りました」
「新渡戸稲造について殆ど知らなかったのですが、多くの事を知ることができました。稲造の精神が、遠友学校や戦後の教育に受け継がれていることが素晴らしいと思いました。次回はその中味を詳しく知りたいと思います」