11月16日(火)、講座3「石狩市に残る歴史遺産」の第2回「濃昼山道と増毛山道」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、こがね山岳会会長の渡邉千秋さん、受講者は37人でした。
渡邉さんは、浜益区幌で生まれ育ち、二つの山道の復元・保全活動の先頭に立って活動し蘇らせた方で、現在も保全整備のために笹刈などで日々汗を流しておられます。
増毛山道(濃昼山道を含む)は、その歴史的役割と地域の人々の地道な活動によって体感できる貴重な山道として評価され、「北海道遺産」に選定されています。
今日は、両山道の復元とその後の維持活動について、渡邉さんのお話とビデオ映像で学びました。その概要を紹介します。
◆二つの山道開削の歴史的背景
幕末期の時代背景による同じような流れがある。
・ロシアの南下政策の脅威に対する北辺の防衛と、幕府による蝦夷地(北海道)支配と漁場拡大のための道路が必要であった
・1853(嘉永6)年、松前藩は、ロシアが樺太に砦を作っていると聞いて樺太に派遣隊を出すが、日本海側に陸路がないため困難を極めた
・函館奉行所(幕府の出先)は、場所請負人に命じて、増毛~浜益間の山道を自費で作らせた
◇濃昼山道
・1857(安政4)年、厚田場所請負人濱屋与三右衛門が自費開削
伊達家の指導も受けながら進めたと聞いている。
・ニシン漁が終わる5月~やん衆を故郷へ帰さず雇い入れる
同年7月完成する。
濃昼山道:濃昼から安瀬まで(11㎞)。
・完成後は庄内藩による北方警備や地域住民の生活道路として100年以上利用された
◇増毛山道
・1857(安政4)年、増毛の場所請負人伊達林右衛門が自費開削
・伊達家は秋田から専門家(38人)を呼び寄せ、地元のアイヌやニシン漁後のやん衆を何百人も雇い入れて、56日で完成させる
・工事費:千三百拾壱両(現代に換算:1両=約13万円)
・増毛山道:浜益区幌から増毛町大別刈まで(約28㎞)
・北海道の名付け親松浦武四郎は「蝦夷地第一の出来栄え」と評した
◇忘れられた道
しかし、両山道は海岸線の国道整備の影響で使用されなくなり、痕跡も分からない程3メートルを超す笹藪に埋もれてしまい「忘れられた道」になってしまった。
◆どのようにして蘇らせたか
◎濃昼山道保存会の活動
◇きっかけ
・昭和55(1980)年 こがね山岳会結成
・平成2(1990)年 昔の山道がどうなっているか調べてみたい
・平成3(1991)年 濃昼山道に入る
→海岸線や沢伝いに奥に入るため分かり易かった。
北電の送電線に一部使用。 地元民が山菜取りに一部利用。
4月20日と23日2日間かけて下調べを行う(今は4時間)。
山道が残っていることを確認→当時は復元など考えず。
・平成11(1990)年4月:浜益中学校長であった田中氏が、ルーランから送電線を伝って濃昼峠へ出る
・そこから厚田側に連なる残雪に濃昼山道らしき白状線を見た→「40年使われていなくてもいまだに跡が残っている。今開けたらまた40年もつ」と思ったと語る→復元に動き出す。
◇復元活動
・11月:林野庁長官が浜益出身と知る→上京する浜益村長に手紙を託す:山道の保存はボランティアで行うことで→了承
・平成12(2000)年 濃昼山道保存会結成(295人)
「国有保安林内作業行為(下草刈り)許可申請」を空知森林管理署へ提出。
・濃昼山道初鍬入れ(旧道分岐コルまで)
・平成13(2001)年 濃昼山道保存会と石狩森林管理署・空知森林管理署とで「森林パトロールボランティア事業の実施に関わる協定」を締結(5年間)
・平成17 (2005)年9月25日 濃昼山道開通
10月1日 石狩市・厚田村・浜益村3市村合併。
10月8日 石狩市民の方々と濃昼山道を歩き初め実施。
・その後、様々な活動を展開し、現在も続いている
◎増毛山道の復元活動
・平成 5(1993)年 増毛町別苅より増毛山道の調査( こがね山岳会)
・平成19(2007)年 留萌の小杉測量設計で増毛山道全線航空写真を撮影し、渡邉さんに山道ルート確認の依頼がある
・現地へ行かなければ写真を見ただけでは分からない→断片的に白樺やダケカンバが道筋を示す目印となることが分かる
◇苦闘10年を経て
・平成20(2008)年4月
幌稲荷神社石狩市浜益区幌入口より増毛山道の開削始まる。
・平成24(2012)年 留萌振興局と「委託契約書」締結
石狩市と「増毛山道復活プロジェクト事業」に関する協定書締結。
・資金は、留萌振興局が3年間出してくれた
増毛別苅~岩尾までの16KMをわずか2年で行った。
・次に岩尾分岐から幌までを行うことになる
・最終的に幌と繋がるまでに10年を要したが、活動を行っている間は楽しかった。道を探すのは大変だったが、開いて行くうちにどんどん見えてくる
・石狩市長さんに支援をお願いしたところ、市職員の協力を得て、浜益御殿の一つ手前の水準点(NO.8461)から浜益御殿までの1.8KMを6日間で完成させた
・作業は3段刈に分けて、18人程で1日300M進む
1番目:荒く刈っていく。 2番目:中ぐらいに切っていく。 3番目:きれいに刈っていく→深い藪が1日で素晴らしい道になる、感動的瞬間であった。
・平成28(2016)年10月16日 増毛山道全線復元開通式
増毛町別苅~石狩市浜益区幌(28KM) [岩尾支線含め32KM]。
◇復元その後 「北海道遺産」
・現在は、「NPO法人増毛山道の会」「こがね山岳会」により、その魅力を体験できるよう、トレッキングなど様々な事業を行っている
・保全維持管理のために、地域住民の参加・協力を得て山道の利活用や保全活動を行っている
・平成30(2018)年11月「北海道遺産」に選定される
・山道の維持管理に伴うクラウドファンディングを活用して山道整備事業(5/1 ~ 10/16までの各土曜日毎)16回
クラウドファンディング(7月1日~8月31日まで)。
◎増毛山道復元の記録(ビデオ鑑賞)
後半の30分間は、10年をかけて蘇らせた復元活動とその後の活動についての記録をDVD映像と渡邉さんの解説で鑑賞しました。
〇スタート地点
〇笹藪を開く
笹刈り:2m間隔で進む、3m離れると前の人が見えなくなる。
チェンソーや草刈機で3m以上ある笹藪を切り開く。
横幅を30mの広さに広げた所もある。
2年休むと笹藪になり、作業が大変になる。
〇ドッキング
〇雪上での作業
〇10年かけて
〇番号標識の設置
10月になると雪が降り積もる。
〇絶景眺望
雄冬山頂から望む。
〇ダケカンバの並木
〇巨木
〇電信柱
電線が腐食せず残っている所も。
〇一等水準点
〇武好駅逓
郵便物の集配や旅人の宿として使われていた。
〇伊達林右ヱ門の功績を讃えて
標柱などの大きな資材(約500KG)は、ヘリコプターで運ぶ。
〇夢実現の笑顔
〇地図上に蘇る
〇番号標識の設置
案内標識:ルート上には、一定の間隔で案内標識を設置。
・B40=別苅から40番目:B=別苅 I=岩尾 H=幌
・IB=岩尾分岐~別苅
・表示板1枚6000円と高額→118枚使用
渡邊さんは最後に、「増毛山道の会も高齢化が進んでいます。人を集めて維持していくことは大変です。これを機に活動に関心を持たれ、ご協力頂けますことを期待しています」と話されました。
長年、山道の復元と保全に使命を感じ、情熱を傾注された姿に感銘を覚えるとともに、未来へ繋ぐことの大切さを思い知らされる講座でした。ありがとうございました。
終りに、受講者からの感想を幾つか紹介します。
「『濃昼山道と増毛山道』こがね山岳会会長、渡邊千秋講師による詳しい解説、資料とスライド上映をして下さり、とても尊い奉仕心で皆様方と協力、苦労されて全うされた様子を知り、感動しました。素晴らしい講座ありがとうございました」
「『石狩の碑』の取材で何度も何度も大変お世話になり、改めてお礼申し上げます。郷土研究会の皆で、その入口部分を少し案内して頂きましたね。今日、山道保存会の皆様のご苦労の様子を映像で見せてもらえたのは本当によかったです。実際の山歩きは年齢的にかないません。是非、図書館にDVDを置いて多くの市民に見てもらえるといいですね」
「石狩には素晴らしい取組をしている立派な人がたくさん居るんですね。無知でゴメンなさい。全くお名前も知らなかったですが、頑張っておられますね。今後も増々のご活躍を期待しています。ボランティア参加したいが何分にも年とりすぎちゃったです」
「以前から興味を持っていた、二つの山道についての講座を、その開削の中心にいた渡邊様から直接聞くことが出来、素晴らしいことでした。映像もよかったです。本当にご苦労様でした。是非、山道も歩いてみたいです」
「山道復元にかける情熱、思いの深さを感じます。多くの苦労、努力のたまもので、道を確認し拓いていったこと。昔、山道を作った人々の厳しい状況を重ねつつも今、仲間の方々との地道な作業、ネットワークを広げた活動が多くの受賞が物語っているとわかります。苦労の中に道が出来ていくことの感動を語っていた姿に感動させられました」
「身の丈以上の3mにもおよぶ根曲り竹の山腹を30㎞以上の歩道を標高500m~1000mの高山帯で、増毛から濃昼迄続く古山道の開設するにあたっては幾多の苦労が伴う事が察せられた。現場迄たどりつくまででも大変なのに笹刈機械で伐採作業は重労働です。しかもボランティアで長区間のご尽力に頭が下がります」
「どちらの山道も整備するには、大変な苦労だったと思いますが、楽しみながら作業しているようで、うらやましく思いました。トレールトレッキングの道として、これから全国的に広め、皆さんにも楽しんで頂けるよう、石狩の財産となることを願っています。道を開いた方々には心から敬意を表します」
「岩尾別~武好間は歩いた。幌~御殿、濃昼~峠も歩いた。もう少し若ければ他の山道も歩きたかった。山道の開削本当にご苦労様でした」